式年のオリジン ”The origin of Sengu years.”

 何かを続けるということはなかなかに難しいもので、続けているもの、繋がっているもの
をなにかひとつでも持っている人間というのは幸せ、というよりも幸運なのではないかと。

 奇しくも同じような放送時間帯で、愛知と三重の間辺りで、本来ならばカバーしているエリアが
異なる通常は競合しない同系列の放送局の裏番組として、ごく限られた地域ではあるものの、
遷宮の儀式の中継とポケモンの最初のシリーズを忠実にアニメ化した作品が被っている
というのは、自分の穿った目で見るとなんだか共通している部分があるような気、というか
錯覚を覚える次第です。

 まあ、時間とか歴史とか価値観的に同列に語る事にかなりの後ろめたさを感じつつも、
一定の単位の時間、継続して続いている所と、定期的にコンテンツの中核(と呼んで
良いのか語弊があるかも知れない)が新しい入れ物(シリーズ、ソフト、ハードウェア)
に置き換わり、そして世代を超えて人々から親しまれているという点は共通しているかと
思います。

 あ、あとキャラクター(と括って良いのか分からないけども)が多種多様な世界観。
というのは、万物に神が宿り、森羅万象を擬人化するのが大好きなこの国ならでは
なのかもしれません。なんでもかんでも萌え化するのとか。最近の流行で行くと
戦艦とかね。

 まあ、ちょいと話が逸れました。まあ、かといって本題らしい本題がある訳でもない
のですが。ひとまず閑話休題。

 物事が続く、続かないというのはそれなりの理由があるものですが、大本の根幹、
根本の部分でモチベーションを持てる、持てないという差は「信じる」ことができるか
どうかが大きいと、最近の私は常々思うのですが、なかなかどうして、意識的に
「信じる」ようにするのは絶望的な難易度を誇る所業なのです。

 昨今の社会情勢、ただでさえ人間というのはネガティブな情報に過敏に反応する
ようにできていて、テレビ、ネットなどの影響で日々大量の情報に触れると、結果的に
 様々な物事の悪評ばかりが耳やら鼻やら目についてしまう訳で、そういう過敏な
メディアリテラシーが情報というものに対してまるで人体の中のウィルス、細菌、
毒物に対する抗体の様に、アレルギーの如くに過剰反応をして、シャットダウンして
しまって「信じる」事の難易度をスーパーハードモードにしてしまっていると私は
仮定して考えます。
  まあ、要は自律神経を意識的にコントロールするようなもので、制御なんて
できるのか皆目見当つかないですね。ただ、その問題を意識していることで
多少は、気休め程度には緩和できるのではないかとも思う訳です。

 まあ、しかし、赤と緑なのに不思議だね。御三家なのに扱いが…。それ以外は
面白かったのになあ。サカキかっけー。




 などと感想を述べている、残念だけどXYは見送りかなあと思っているkayu9

がお送りしました。

森林公園で中食を、そして猫は笑う"Lunch at Forest Park. And the cat is laughing."

DSC_7488.JPG

 少し前に、外で買ってきた料理を家で食べる事を「中食(なかしょく)」などとテレビ番組
で言っていたんだが、そういうロジックで、家で作った料理を外で食べる。ということも
家と外の中間であるわけであるから、中食と言えなくもないのではないがいかがだろうか?

 というわけで、今、私の中でマイブーム(死語?)なのが、手弁当を持って、外の
どこかの木陰のあるベンチで昼食をとりに、外食する事なのですが、つか、それを
外食と称して良いのか微妙に語弊がありそうですけども。

 そうだな、野外で食べる食事、「野食」というのはどうだろう。まあ、なんだか、音的に
夜中に食べるものみたいだな。 

閑話休題。以下本文。


DSC_7491.JPG
DSC_7491.JPG posted by (C)かゆきゅう

 久々に制作関連の画像を貼ったような気がする。が、いちいちは確認しない方が
精神衛生的にはいいいだろう。前貼った画像が何だったか、そんな昔のことは覚えて
いない。

 涅槃系招き猫シリーズの新しいもの、まあ、新しいとはいえ、形としては去年の10月
辺りにある程度できていたものを若干の手直しを加えて放置していたものを最近、着彩
した。

 やはり、素材の質感と造形という要素があるのだから、ここに更に緻密な描画は要ら
ないという気が、というか、丁寧に塗れば塗る程に、このかたまりの持つ良さが減って
いるような気が最近、うすうすと感じている。

ある種の不気味の谷現象と、言えなくもないのだろか。

 自分に自信を持てない人間というのは誤魔化そうとして素材が活きない厚化粧を
してしまいがち なのかもしれない。

 まあ、なんとか、この感じを残しつつ、完成まで留まることなく迅速に仕上げたいですわ。

いつもの、今日しかない夕焼け。Usual, the sunset there is only today.

  
 この長い長いスランプの出口を探して、右往左往する日々は一体何日目なのだろう。
おそらくは100日単位、もしかしたら1000日単位で続いているかもしれない。
 でも、それでも、そういう日々は今日のような1日がどんどん続いた結果であるわけで。

 しかし、そもそも、自分はいつもスランプのような状態だった気がする。スランプこそが
通常運転であり、そうでない状態の方が特別な状態だったのではないかと疑心暗鬼にも
なる。 自分が信じられなくなる、つまりは自信をなくす。

 悩みってのはとことん集中的に悩んでいるとパッと答えのでるものと、考えれば考える
ほどにドツボにはまる、まさに、下手な考え休むに劣る、みたいな二種類がある。

 まあ、前述のような悩みがどっちであるかは、あえてここで明言しなくとも おかわり、
いや、おわかりだろう。

 てなわけで、こんな益体のない、つらつらとつれづれな考えとは呼べない曖昧模糊と
した思い、というかストレッサーを一旦切り離して、とりあえず放り投げ、匙を投げて
脱兎のごとく迅速に逃避行すべきなのだろう。 有名な古い中国の兵法書にあるという
究極的に最終な手段である。

 まあ、そういうスタンスで、少し前の自分を省みて反省するに、やっぱり、そういう迷いが
無意識的に、どうにも誤魔化しようもない位にそういうきらいを、作っていた作品から
ゆんゆん放射されているのを、痛々しく感じ取ってしまうもので。

 また、そういうデフレスパから逃げるべく、頑張っていこうよ、自分。

はえのおう ハイズル "The fly which got damaged creeps the ground. "

 森林の様に木々が茂る、ネーミングもほぼそのまんまな公園の芝生の隅の木立の木陰の
ベンチで弁当を食べていると、左足の甲に虫が這ったような感覚が。いわゆる蟻走感というものだったか。

  視線を足下に向けた瞬間、小さいながらもでっぷりと太ったフォルムで二枚の羽の生やして、
憎たらしい複眼をこっちに向け足にしがみついている。空いている左右の前足どうしをごまをするかのように顔の前でスリスリとしている。

 もちろん蟻ではない。ここでは仮にFさんとしておこう。なんとなく。

 その瞬間に猫が足に付いた異物を振り払うかの如く、細かく足を振り、Fさんを払ったのだが、次の瞬間、想像していたのとは違う事が起きた。

 てっきり不快な羽音で、私の無意識に設定している領空内数十センチをジグザグに飛び回り、
不規則に領空侵犯を繰り返す。
 …かと思えば、揺さぶられた勢いにさして抵抗することなく、あっけなく草の地面にずんぐりと
した芋がぽてっと落ちるかのようにFさんは背中から落ちた。

 どうやら衰弱したか、怪我でもして飛べなくなり、そこいらを這いずっていると、たまたま私の足に乗り上げただけのようだ。

 普段、元気でピンピンしている状態であれば近寄れば、瞬時に殺意をむき出しにして、手頃な
殺傷器具さえあればただちに撃滅するような、親の敵か何かと同等のように敵愾心を向ける対象ではあるが、この状況下では、なんだか「もののあはれ」を感じて、「まあ、がんばって生きろや」と内心思ってしまうのは人間の性というものであるようだ。

 結局のところ、様々な事、人、物の善悪、正邪というのは状況に応じて移ろってゆくもので、絶対ではない。一時的な気の迷いなどとか瞬間の高揚感でしかない。それにのっかっるのはいつの時でも危険な事ではある。でもまあ、それは必ずしも悪い訳でもない。

 状況にのまれすぎない冷静さと、状況にすぐ混ざり込めるノリの良さというのはなかなか両立しがたいものではあるけれども。

 まあ、ともあれ、Fさんがその後どうなったのかは知る由もない。しばらくは若干伸びすぎた芝生
やせいぜい数センチの低い草をカタパルトのようにして飛び立とうとして落ちてを切り返していた
けれでも。いや、けれども。
 だけれども、彼、いや、もしくは彼女なのか、Fさんはこの広大な地球、世界においては重要な
意味など持ってはいないのだろう。でも私にとっては幾ばくかの意義を提示してくれたのだと
思ってしまう。

 なんだか、某ロックバンドの「超新星爆発」な歌のアイデアの基となった、命の尊さを教えて
くれた蟷螂みたいですなあ。

 ま、宇宙規模で考えたら人間と虫も同じようなものかもしれないですけど。

 それは「一寸の虫にも五分の魂」な話ですが、たしか本来の言われ方だと「ちっぽけな虫と
人間であっても等しく尊い」といった意味ですから逆説的な感じで、「どっちも無意味で
大差ない」という事になってますが。

  まあ、だから、価値も無価値も本質的には変わらないのかも知れません。ゼロベースで
世の中を見ればすべてにものは並列であってフラットです。

 そこに執着やら、欲望を含んで捉えてこそ意味があって価値がある訳です。それが生きる
という事、「生者の考え」なんでしょう。

  逆に全てを無意味、等価値と捉えるのは「死者の考え」といえるかも知れません。
まあ、死んだ人間が物事を考えられるのかというのは答えの出そうにない疑問ですが。

雨上がりとアゲハのブルース-Bruce of Swallowtail in after the rain-

 雨上がり、ベランダに出た瞬間に、蝶が羽ばたいた。

 サッシの下部分というとても不可解な場所で数日前に蛹化したアゲハの幼虫が
無事に羽化していたようだ。


 虫の幼虫が蛹になり、そして成虫になる。一見というか一聞、とても、至極、当たり前で
当然な話ではある。

 しかし、かの蝶々が成虫になるまでの過程を、経過を知っている身からすると、それは
とても、一片の狂いのない、確実に起こりうる事なのだとは到底思えない。

 ベランダには小さいながらも柑橘類、おそらくはオレンジの木、とは呼べないような
株というか苗が植木鉢に植わっている。 さほど大きくはない。しかし、そんなオレンジに
 毎シーズン、アゲハが卵を産み付ける。よくもまあこんな辺鄙な所にある柑橘類の
植物を発見できるものだと呆れるのだが、その生み付けられる卵の数は明らかに
多すぎる。

 せいぜい数匹ぐらいが成虫になれるかどうかも分からない程度の葉っぱしか
茂っていない。成長途中で確実に食い尽くしてしまう。確実に。

 そもそもアゲハを育てる為に植えているオレンジではないので、当然に卵や幼虫を
発見次第に排除しているのだが、たまたま自分が気まぐれを起こす、もしくは根気負け
して見逃したりもする。しかし、それでもベランダには何らかの捕食者が現れるようで、
気がつくと 幼虫がいなくなる事がある。

 たまたまいなくなったと思った一個体がサッシの下部で蛹になっていた。その一匹だけ
が成虫になった。本当にたまたま。確率としては10パーセントあるかも分からない。

 こういう淘汰というのはいわゆる自然であるならば当然。たまたま自分が
そこに介入していたから一匹だけ残ったとも言える。

 まあ、この件から思い知るのは、自然において、世間においては当然、絶対なんて
ものはあり得ないという事か。

  人間が当たり前だと思っている事なんて実に不確かで曖昧模糊としている。
しかし、そんな酷い有様の世界である程度の正気を保って生きるには不確かな
ものを絶対に揺るがない確かなものとして信じられなければ難しい。

  知らなければ、気がつかなければ何も気に留めずにいられるのだろうけど、
それを知ってしまった人間はどうすればいいのだろう。

 世の中、そういう人間で溢れかえっているような。 年間自殺者数とか見ると
そう思ってしまう。交通事故で死ぬよりも自殺する方が多いとか、悪い
冗談だな。だったらいいのに。

 っと、妙な方向に思考しがちで、例外的なアクシデントに見舞われる事が
多い自分は、そう救いのない方へ考えてしまいがちではある。

 まあ、世の中、理屈だけでは救われないものです。人が生きるには
夢や理想や、キャッチーな言葉、妄想とか思い込みとか、甘ったれた願望、
微笑ましい嘘とか、心を躍らせてくれる唄とか、二次元とか、脳内設定や、
フィクションやら偶像やらアイドルやらカリスマ、神様とか宗教とかが必要なの
です 。

あ、あとお金も。

 まあ、お金自体も、国という権威を信用して成り立つ、割と不安定なもの
ですけどね。

 と、話がぐるぐると無限軌道のごとくにループしてくる感じなのでここまで。

真を写すことの難しさ。それは何をどう表現するか

 「創作ピンホールカメラとその写真展10」会期を無事終了しました。
ご覧頂いた方、ありがとうございました。あいにく来られなかった方、残念でした。
もう、あの作品を観る機会はおそらくないでしょう。 w

↓最終日の搬出直前の様子など↓








 この今回の展示、写真というアート表現がいかに奥深いかを痛感しました。
「フォトグラフ」の語源が「光で描く」ということらしいですが、まさにそういうものです。
あくまでも写真機、カメラ、フィルム、その他、撮影機材というものは絵画における
画材ですね。

 絵画であれ、写真であれ、立体であれ、空間表現であれ、パフォーマンスであれ、
音楽であれ、映像であれ、いわゆる芸術とかアートとして見なせるものは、やはり、
第一に技術ではなくて、そのテーマ、「何を表したいのか」が大事であって、それを
表現するために技術が必要です。だから、まずそこが決まらなければ、どんなに
技術的に突き詰めても人には何も伝わらないものです。

 しかし、表現ができる技術力、現実に形にする方法が分からなければ、それは
それで人には上手く伝えられないし、単に「稚拙な作品」と理解もされない。
 まあ、中には洞察力の鋭いか、思考というか波長合う方がいるなんてことも無いとは
言えませんが、それは相当に運が良くなければ。通常は あり得ないかと。

 やはり、思いと力、両方がなければ作品なんて成立はしないんです。形には
なっても どこかしら弱い。 薄い。脆い。儚い。

 この間、ちょっとしたイベントに参加しようとして予定より早く、目的地に着いてしまって
たまたま近くにあったチェーン店の古本屋で時間調整をしたのですが、本のタイトル
などは忘れましたが、小学生の描いた絵画などを集めた画集の様な本を見つけて
読んだというか、みたのですが、一つ一つの作品のレベルの高いこと高いこと。
 とても魅力的な作品だらけで、一表現者の自分が圧倒されかけたのですが、
まあ、これは本を作った方の作品をチョイスするセンス、ディレクションの力も大きい
のではないかと。すべての小学生の作品がすごいという話でもなく、選りすぐりの中
から出てきたものだからというものだろうと冷静な判断というか、負け惜しみ。

 まあ、ですから、絵なんてものは小学生でも描こうと思えば描けるんです。むしろ、
感情を惜しみなく表現する分、大人よりよっぽど描けます。

 大の大人が絵を描く、作品を表現する以上、子どもみたく思いつきだけで描き殴っても
そこに何があるのかと。そこに明確なテーマなり目的を持たないと。自己を自由に表現
するのは悪いことではないですが、周りを、他者を観ることは大人としては当然やるもの
ですね。

 作為を込めない純粋無垢さというのも、魅力的ではあるかも知れませんけど、子どもは
 子どもなりに、その弱さを利用する様な したたかさ や、ある種の狡賢さを持ってるもの
ですし、大人の考えることは全て汚い。なんて事もなく、「三つ子の魂百まで」という言葉も
あります。

 ん、なんだか言いたいこととズレてきてますが、まあ、やはり、一角の表現者を気取る、プロ
フェッショナルを自負するのなら、それなりに高い技術、知識、思考が当然求められるもの
なんですよね。

 まあ、写真のプロを目指す訳ではないですが、もう一度、写真という表現に向き合ってみたい
と強く思うのでした。

オープニングの会場から光の巨人の話まで


 ピンホールカメラ展、初日はあいにくの空模様、お足下のコンディションが
万全ではない中でも多くの方がご覧になったようです。ありがとうございます。

 オープニングパーティも楽しかったです。

 パーティ中に高浜の美術館で催される、「ウルトラマン 創世記展」の招待券を
とある方から頂いたのですが、そこでちょっとした雑談に。

 ウルトラマン、しかも初代ともなるとリアルにテレビ放映していたのは高度
経済成長期で、もう随分と昔の事になります。よって若い世代にとっては馴染み
はあまりないのですが、直接には関わりなくても、その影響を受けた映像作品
などの、いわゆるサブカルへの影響は大きいですよね。最近に限っても、
巨大な人型決戦兵器が終末的な世界で人知を越えた驚異的な存在と戦う話とか、
中世ヨーロッパみたいな城塞都市を舞台に人間を食う巨人達に人間の兵団が特殊な
立体的に機動できる装備などで立ち向かったり、果ては自ら巨人になって戦う話が
ありますし。

 もはや、サブだどうの言うまでもなくカルチャーであり、文化ですね。まあ、
だから美術館でも展示をする訳ですし。 色んな作品のベースになっている古典とも
呼べるものです。こういった展示を観るのも単に映像をみるのとはまた違った角度で
みるのも面白いかと。

 まあ、あとは余談ではありますが、どんな人気のシリーズものでも初代という
ものの知名度は揺るがぬほどに強いのですが、シリーズが続いたりしていくと、
最近の事情は良く知らない。最近の◯◯は◯◯じゃない。など、現在進行形で
ハマってる人間の数は限られてくるものですね。

 瞬間的に「好きだ」とか「マジ面白い」と思う人間は多くても、そういう興味、
気持ちを長く持ち続けられるのは限られる。しかし、そこまで持ち続けられたら
それはその人だけの財産と呼べるものかも知れません。
 まあ、その財産の為に それ相応に散財をしてしまうものですけどね。

 でも、好きなものを好きでいられる。それは間違いなく、しあわせと呼べる
ものです。

 そう考えると自分は不幸とまでは言えなくとも、薄幸と言わざるを得ないかも
しれません。熱し易く冷め易いというか、結構疑り深い質なもので、ふと自分が
抱いている気持ちを信じられなくなる事がよくあります。 信じる事は大事です。
それが嘘とか本当なのかを抜きにしても。

 ま、焼け木杭に火がつく。という言葉もありますから、なろうと思えばなれる
のかもしれないです。しあわせ というのは。

 しあわせは歩いてこない、だから、自分で作るんだ。

それらしいオチが出たとこでお開きです。

【告知】創作ピンホールカメラとその写真展10


 本日、7月3日の水曜日から8日の月曜日まで、名古屋栄のナディアパークの
デザインギャラリーで「創作ピンホールカメラとその写真展10」が開催されます。

 通算て三回目の参加で、今回はピンホールカメラではポピュラーな印画紙を
フィルムに、いや、ネガに用いて自分個人としては割と基本に忠実な仕様で制作
しています。

 相変わらず 私の他の出展者の方々はカメラ、写真のクオリティの高い作品を
持ってきますので、その中で埋没しないように「カメラとしてのギリギリ最低限
の性能を有し、直感を駆使してアバウトなカメラ、写真を作る」という根本は
シンプル、 スタイルはゴテゴテというなんとも二律背反なテイストを目指して
作りました。

 ピンホールカメラは箱に極小さな穴(ピンホール)を開けただけの箱という
 超簡単でシンプルな仕組みのものですし、お手軽、お気軽さは抜いてはいけない
重要な要素な気がどうしてもしますし。極力いい加減で行き当たりばったりな
仕事でも 間違いではないんじゃないかと。

 今回、その方向性で、自室にやっつけの突貫で暗室のようなものを設営して
印画紙を現像、プリントしました。 たまたまあった黒っぽい色の布で窓を覆う
ものの、日中では完全とはほど遠い遮光性しかないので日没後なら誤魔化せないか
と実験を試みてテスト、というよりは山勘の出たとこ勝負で問題なく作業できました。
 
 印画紙を暗室で扱う際には通常は赤色の灯り セーフライトで作業する為の明るさを
確保する訳ですが、そのような専門機材はないですから、また、ピンホールカメラの
為に用意するのも不本意なので、自転車で使うようなクリプトン球のマグライトの
先端部分に、すべての商品がだいたい105円くらいのお店でも取り扱ってるような
赤のカラーセロハンを、ネットの情報だと3枚重ねの所を6枚重ねに被せたライト
で直に当てて使うのではなく一旦、壁に当てて、いわゆる間接照明として使って
みました。セミセーフライトとでも呼んでみましょうか。

 ピンホールカメラに限らず、アナログなカメラは基本的に撮影したものはネガ、
つまり上下左右、明るい部分の光、暗い部分の影、カラーの場合は色も反転します
から、そのままではとても不自然で気味の悪い画でしかないので、それらをプリント
でまた反転させたり、引き延ばして拡大したりして自然な画にします。

 勿論、そういう類の機材なんて無いのですが、ネガのままのサイズでプリントする
簡単な方法があったりします。
 ネガとして撮影、現像した印画紙と、まっさらな感光させていない印画紙を暗室で
の表面と表面をぴったりと重ね合わせて、ネガ印画紙の裏面側から明かりを一瞬だけ
当て、 まっさらだった方の印画紙を現像するという、聞いただけだと本当にできるの
かな? と疑いたくなるような方法ですが、やってみるとアッサリとできてしまいました。

  ちょっと工夫して書類をまとめて入れておくのに用いる透明なクリアファイルで
ネガと印画紙を挟んで奥角まで押し込むとわりと簡単に固定できて便利でした。
 そして、当てる明かりは蛍光灯ではなく、電球の方が若干コントラストがくっきり
と仕上がる気がします。たぶん、LEDでも良いと思われます。


 写真、ことさらアナログなフィルムカメラなどは、こだわればこだわる程に
 仕上がりが変わってくるものですから、現像などのマニュアルは秒数や温度、
撹拌回数など を かなりシビアな感じで提示していたりしますが、とりあえずの
入門のとっかかり なレベルではそこにこだわらなくても良いかと思います。
 というか、失敗を重ねながら数をこなさないと、どうしてマニュアルでは
こう指定しているのかが分からないのでひたすらマニュアル通り。という所から
抜け出せないものかと思います。それに今日日、確実性を求めるのならデジタル
カメラで撮った方が断然に良いです。まあですから、かえって失敗する事を意識
しすぎないで良い分、アナログカメラは楽しめるのではないかとも思う次第です。

 写真現像なんて経験は今じゃないと もう できない ものかも知れないですし。
「いつやるのか?」と考えれば、「今でしょ!」と、さほど遠くない未来に見返すと
恥ずかしくなるか、一体コイツは何を言っているのかと思われる様な一文を残して
おきます。

 若干のデジャヴュ感を感じるけど、以前似た様な事を書いてるかな…。
最近の自分の記憶力に疑問を抱きがちです。



搬入完了

 



青葉のざわめきと事務的な告知"Notices clerical and bustle of green grass"



草が風に揺れる音や、鳥のさえずりが心地よい季節になりました。
こういう風景、風物というのは大事だなと思うのは結構、歳を重ねてきている
からなのかな。

まあ、三十年くらい生きると、全ての物事には終わりがあるものだと実感することは
多くなってゆくものかも知れません。

やれるときにやれることをすべき。という結論は単純かもしれませんが、一つの真理
ではあります。

いつやるの? 今でしょ!


…というのもそろそろ、「いや、もうその言い回しもぼちぼち、今って感じじゃないだろ」と
いう頃合いだと思うこの頃です。

閑話を休題しつつ、一身上の都合により、メンタルな、モチベーション的な問題により
随分とブログの更新ペースが随分と残念な感じになっておりましたが、もうちょいと
テンポを上げようと思いますが、原則的にリアルタイムな更新はせずに、ランダムに
思い立ったものを、とりためているものの日付を基準に備忘録のようにアップして
いきます。

面白いかどうかは置いておいて、ネタだけはあります。

そして動画は動き出す…"I started to go the time ..."

パルプで花を作りました、まあ、言うなれば造花ですね。 お祝いの花として、いつもの開運えんぎもんのテイストを加えつつ、メイキング。 手元に残らない制作なので、一揃いを写真以外でも記録しておこうと動画でも記録。



まだ一部ですが追追、動画、画像をのっけていく予定です。


写真をスライドショーで表示
 

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鯛と花の舞い踊り ”Sea bream paper that rotates”  

鯛と花の舞い踊り ”Sea bream paper that rotates”


えんぎもんと花の組み合わせのシリーズです。サイズは手のひらに余裕で乗るくらい。


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そして動画は動き出す…"I started to go the time ..."

はなかざりなねこ"Cat flower decoration"

えんぎもんの猫と花の組み合わせ。このポ○デライオンみたいに首回りを飾る のはいろいろと面白そうである。



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そして動画は動き出す…"I started to go the time ..." 
鯛と花の舞い踊り ”Sea bream paper that rotates”   

人生は時間との戦いなり "Life is a struggle against the time"

春が来る前触れに急に気温が下がって真冬に
戻ったような日がよくあるそうですが、まあ、今日は
そういう日のようです。

そういう日に限って自転車で遠出しようとか予定を
立ててしまうのですが、まあ、動いている分にはむしろ
丁度良い寒さですし、身体が冷え切った状態で入る
風呂というのもなかなか良いものです。

それはさておいて。

本日、会期があとわずかになった愛知県美術館の
「クリムト 黄金の騎士をめぐる物語」展を観てきました。
さすがに超有名なだけあって金曜日の夕方の人の入り
は多かったです。

割と最近放映された、といっても去年の事ですが、NHKの
日曜美術館のクリムトの特集のイメージで観てしまうと、
随分違った印象で、クリムトの絵の展示というよりは
クリムトらのウィーンでの総合的な芸術運動が中心に
なっていて、ポスターや機関誌などのグラフィックデザイン、
家具、インテリア、食器、アクセサリーなどの工芸、建築から、
「黄金の騎士」などの作品のイメージの元になった甲冑、
ジャポニスムに関連して日本の工芸品、着物、布地、
染めの型紙などバラエティーに富んだ展示でした。

いわゆる「黄金期」な感じの作品はメインの展示作品である
「人生は戦いなり」だけで、「医学」「哲学」「法学」の原寸大
パネル、「ベートーヴェン・フリーズ」の一部原寸大パネル、
「ストックレー・フリーズ」の下絵の原寸大複製パネルで
ストックレー邸食堂のレイアウトで展示。

やや不満が残るものの、まあ、重要な作品を観るには
ウィーンに行かなければ無理ですかね。

グスタフ・クリムトは画家というよりは装飾家という
イメージでみた方が、しっくりと来る気がします。

個人的にストックレー・フリーズの渦巻き「生命の樹」、
がどうにも好き過ぎて。

そもそもは昨年の個展、トヨタホームのギャラリーでの
「楽しいHOME展」の会期中に福犬の装飾に唐草模様
をイメージして金紙を渦巻き状に会場で貼りつけたり
していた時にたまたま見たナゴヤアートニュースの
展示情報に載っていたストックレー・フリーズの「期待」
部分の写真を見て背景の生命の樹の渦巻きを見て
「これは」とひらめくものがあったのがクリムト展に行く
きっかけであったりしました。

今回、同じ美術展を2回観るという事をしてみたのですが、
一回目にじっくりと回って、後日、カタログを読み込んで
行くとまた見え方が変わってきますし、前回気が
つかなかった所に目が行ったり、新しい発見があったり
2回分の料金に見合う、それ以上の価値があるかも
知れません。

昨今はスピード、早さが尊ばれる時世ではありますが、
例えば同じ道程をゆくにしても、自動車で行くのと、自転車で
行くのと、徒歩で行くのでは全く見える風景は違います。
移動速度が速くなればなる程に、記憶に残る場面は
少なくなります。

作品の前をさっと通るように観るのではイスに
腰掛けて眺めた時と得られる情報の量は違います。
個人的に腰を痛めてから、展示をざっと流して観るような事
があまりできなくて、休憩がてらイスに座って、
リラックスして作品を鑑賞する事は実によいものだと
思うこの頃です。

やや話がそれましたが。
本来の目的としてはやや残念ではありますが、
ヨーロッパの各国の芸術運動のつながりが見えたような
展示で良かったかと思います。


帰りに地下のミュージアムショップに寄ったら、クリムトの
最新の画集が出たらしく、店頭に置いてありましたが、
豪華で、大きくて、分厚くて、すごい興味を惹かれ
ましたが、お値段も2万5千とそれなりにすごい事に…

いつか手に入れたいものです。

タブレットの入力環境を考えてみるテスト"Consider the test environment of the tablet input"



ご無沙汰しております。パルプ造形家かゆかわきゅうです。

昨年末から、某電子書籍リーダーこと、お手軽
7インチタブレット を使いはじめていますが、
なかなか使い心地が良いです。大きいことは
良いですね。

なにかと某社の同サイズのタブレットと比べられ
ますが、既に Androidのスマホを持っていて、
かつ、某大手検索サイトに多くの個人情報を
預けることに抵抗が ある、タブレットPC を買う
大義名分として「これは電子書籍を読むための
端末なんだ」と主 張することができる。

などなど、微妙にニッチなニーズ、やや癖のある
操作、運用方法 に納得できるなら問題ないです。

まあ、普通に選ぶなら5000円をケチらずに純正の
Androidタブ レットの方が懸命です。

で、スマホに比べて画面が格段に大きくなると
どうにもタッチパ ネルに残る手垢が気に なって
スタイラスペンで操作するのですが、なかなか
癖があって コツが要ります。

そしてスタイラスのみでの入力、操作でする際に
ネックとなるの が拡大や縮小の操作です。 指二本
で画面に触れることになるので結局、画面に手垢
がつきま す。

そこで、スタイラスペンを二本にしてお箸持つよう
にもって、さ らに持ち運びの時などに バラバラに
ならないようにチェーンで繋いで「スタイラスヌン
チャク」(画像参照)を 思い付きで作ってみました。

急ごしらえで、使うのに慣れが必要ではありますが、
スタイラス 一本よりはよいかなと。

これを左手に右手にはボールペンの先に透明な円盤が
付いてるよ うなタイプのスタイラスペンを 持って
拡大縮小を自在にしながらお絵かきできるように
なればお 手軽液晶タブレットとして 運用できるのです
が、それは中々に難しいようです。