パルプをこねて回すという事は世界を回す事に等しい。

某、超有名な錬金術をテーマとした少年マンガによると、錬金術とは
3段階あって、まず、ものを理解し、そして分解し、最後に再構成という
手順を踏むそうなのですが。

パルプ造形も概ねというか、殆ど手順としては同じものです。

紙、パルプという素材の性質を理解して、その性質であるところの、
水を加えて力を加えるとカタチが崩れて分解する事を利用して、再生パルプ
に戻して、造形しやすいように脱水、糊などを加えて粘土状に練って
新しいカタチを成形、再構成して、それを安定化して、固着するために
乾燥させて水分を飛ばす。

まあ、陣を描いたりとか、ぱんと手を叩けば一瞬でカタチが出来上がったりは
しませんけどね。

そもそも、錬金術ってのはその字から分かるように、ごくありふれたものから
金のようにとても価値のあるものを作り出す事を目指した術ですから、
「パルプという、ごくありふれていて、さほど価値を見いだしにくい素材に
新しい意味をつくりたい」という、私の基本的なパルプ造形に対するスタンス
というか、思いとなんだかシンクロしているように思います。

まあしかし、紙の錬金術師というのもなんだか微妙な響きですねえ。
「紙」という音が「神」とかかってて、ちょっぴりかっこいい?

まあ、どちらかと言えば、紙というよりは「パルプの錬金術師」なんですけど。

しかし、まあ、どうにも中二病みたいな雰囲気を拭えませんので名乗ったりは
しませんけどね。

てなわけで、この投稿はまた作業風景の動画をyoutubeにアップしましたよ。
という告知の為に書いています。思いっきり話がそれてしまいましたけど…。



以下、作業動画↓↓




やはり、文章の遂行、いえ、推敲はモバイルPCとはいえ、キーボードに
限りますねえ。最近はスマホからソフトウェアキーボードでフリック入力とか
、サジェスト入力をキメて自己陶酔とか、わざわざ高精度な音声入力で
だらだら喋るとか、入力も多様化してきましたが、キーボードでカチャカチャ
やるのが指に適度な刺激がして脳が活性されるような錯覚がして実に
気持ちがよいですね。

まあ、しかし、どんなに「通」ぶってもそんなのは通でも何でもなくてただの
痛い人、つまり「痛」な人でしかないですね。

本当に文章や、文字が好きな人というのは手書きですよ、もっと言えば
数千年に渡り脈々と続いてきた毛筆こそが本物でしょうね。

コンピュータのフォントとは違って、書いた字というのは書いた人間の教養、
性格、心理状態すらも伝わるのですから、これ以上ない高密度な
コミュニケーション手段ですね。

ま、デジタルな物なんてのは、どうしても、極度に圧縮されてしまった、
カテゴリとかパラメータでソートされた仮想のもの、つまりは偽物でしか
ないですね。

まあ、ただ、偽物が悪いという訳ではなくて、偽物だからできる事だって
ありますし、オリジナルとは異なるからこそ偽物であって、その差異こそが
偽物の売りになる部分があるのかも知れません。

とにかく、広い視野こそが大事ですね。人間ってのは正義とか悪とかを
越えた更に大きな視点を持つ努力をしないと、幸福にはなれません。

と、言うだけは、以外に多くの人間ができますけどね。実践は簡単では
ありませんけども。

本題をかなり休題してしまった感もありますが、久々に長文を打てて
気持ちが良いです。

やはり、140字程度では言える事に、いえ、書ける事に限界が
あります。

「無駄」と向き合って、「無意味」を越えた先に見えるもの。

本日のパルプ造形の盛り作業をYouTubeにアップしました。
一部動画にはBGMを仕込んでいますので、音が出ます。ご注意下さい。


こういうメイキング動画にどれほどの需要があって、観たいと思う方が
いるのかどうかもよく分かりませんけども、一、作家、一アーティストは
制作物、制作の作業もワークショップ、ある種の時間芸術、作品とも言える
ものなので、試験的、実験的にやってみる事も立派な制作活動、アート活動
ではないのかと考えるものでもあります。



そもそも、資源のリサイクルというものは、一定の割合で、大きな矛盾を
抱えているものです。リサイクルする事によって生じるエネルギーコスト、
再生のために消費する資源を、出来上がる再生素材の品質、
生産コストを鑑みると、それに意味があるのか分からない。という問題を
孕むものです。



端的に言えば無駄。下手をすれば、ただの時間とエネルギーの浪費とも
言えなくもありません。

しかし、極論を言ってしまえば、人が生きる意味とは何でしょうか。
みんな生まれてたら死ぬだけです。いずれ無くなります。全てのものは
永遠ではありません。絶えず変化し続ける。それが生きると言う事です。

そんな、一見、冷え切った頭で考えれば無駄でしかない、生きると
言う事に何かしらの意味を見いだす事に意味がある。

人が無駄だとしか思えない事を突き詰めた先には、誰も知らなかった
意味が眠っているものではないでしょうか。

しかし、無駄だと思える事、確実性の無い事を続けるというのは、なかなか
どうしても難しい。

端的に言ってしまえばとても、とても、とても、不安です。怖いです。

それでもそんな事を続けるのは、ただの勘、曖昧な予感めいた、
「これには何か意味がある」という、なんとも非論理的なものであったり
します。




無駄は、無駄だと思った瞬間に無駄であり、ゴミはそれがゴミだと
認識したときに発生するものです。

ただ単に「リサイクル素材」という言葉が持っている「エコで何か良さそう」という
イメージに乗っかるような詐欺みたいな事はしたくない。

そういう思いを根幹に据えて、パルプを依り代にした制作を続けて行きます。




こねてはもる。こねては、もる。のくりかえし。

本日の作業風景を動画で記録しました。

パルプをこねる。

パルプをもる。


そして、このような机に。まだ未完成ですが、使いながら更に盛っていく予定です。


パルプのつくえ


梅の花に落ちる春の雨、略して…

梅雨と言ってしまうと全く別の季節になってしまいますねえ。

お久しぶりをしております。かゆきゅうです。




先日の日曜日に近所の東谷山フルーツパークまでサイクリングして、
梅の花の写真を撮ってきました

日曜とは言え、雨がぱらつく天気で、人は来てないだろうとも思ったのですが、
割合、賑わってました。今の時期はやはり、梅の花ですかね、あと菜の花も
咲いてました。

名物である枝垂れ桜はまだまだ先ですねぇ。