「レギュラー満タンで。あ、吸い殻はいいです。」- Please give the regular gasoline to the tank fully.-

なんてね、こんな会話は一昔前ならガソリンスタンド行けば当然の様に
交わした会話。定型文といっても差し支えないかもしれない。

ですが、今日日スタンドといえばセルフが主流となりました。あと10年後は
ガソリンスタンドはどうなってるんでしょうかねえ。

時代というのは移ろい移ろうもんですねえ。「月日もまた旅人なり」でしたか。

世界が変わってもその世界観が認識できなければ酷く残酷なものでしかないかも
しれないです。

むかし、児童向けのアニメ映画だったか、電気というものが普及する以前、ランプを
売って生計を立てている男がいました。その男は小さい頃、暗闇を照らす魔法の様な
ランプに魅了されてランプを売る事を生業としたのですが、時は流れ、電灯という
ものがじわじわと広まり、自分の住む町、村にも電気というものが来るという事を
聞きつけ、激昂します、「あんなものは何の風情もない下らないものだ」と。
そして、そんな「下らないもの」を排除すべく、ある夜、送電線を切りに向かおうと
ランプに火を灯そうとするが、マッチがなく、仕方なく火打石で点火しようとするが、
なかなか上手く点かない。「なんて不便なんだ」と一人愚痴ると、その自分の言葉に
ハッとする。そして「もうランプなんて時代遅れなんだ」 と気が付いてしまう。
スイッチ一つで簡単に点く電灯の素晴らしさを理解してしまう。

そんな話があった気がします。うろ覚えで物語の詳細がおかしいかもしれませんが、
大筋はそんな話だったと思います。 なんか先日やってたテレビ番組の大手電機メーカー
が一般白熱電球の生産を止めたという事の再現ドラマを観ながらそれを思い出しました。

まあ、道具とか仕組みというのはどんどん移り変わって風化してしまいますが、
古いものはすべて、ダメだというわけではありませんね。

これまたテレビ番組なんですが、幕末に明治維新の礎になった、偉人の小説に心酔して
自分をその偉人に投影し、盲目的にその生き方模倣しようと努力し、歌を歌って有名に
なり、役者になったとても有名なタレントの方がゲストのトーク番組がありました。

その語り様を観る限り、これはもう趣味とか好きのレベルじゃないと。これはもう宗教と
呼んでも差し支えないかと。人生の、生き方のお手本として、目指すべき理想の偶像。
まさしく偶像崇拝。

天寿を全うせず、半ばで、敵対者に殺されるが、その功績を、やろうとしていた理想に
共感、尊敬されていると言う点では、某世界宗教の開祖と共通しています。

ああ、だからああも、人気が衰えないんですかねえ。そのうち神様になってしまう
んじゃないでしょうか。というか、戦国武将でも神様になっている方が何人かいますね。
大陸の大昔の三国の英雄も、日本でも中華街の寺院で商売の神様として奉られていますし。

「竜馬信仰」なんてものが出来ても不思議ではないかもしれません。

 なんか話がえらくそれた気がしないでもないですが、まあ、カタチとか枠組みってのは
朽ち果てても、生き様というのは色褪せる事はなく、それどころかもっと輝くのかも
しれません 。

 閑話休題略してカンキュー。

って、話の本筋ってなんだったっけ。忘れてしまった。言いたいけど忘れた。

そういえば、アニメのちびまる子ちゃんで、いつの頃だったかエンディング曲の
歌詞で、お父さんが牛乳屋さんに声をかけたら、牛乳屋さんが驚いて転んじゃった
小話で始まる歌なんですが、馬鹿の代名詞的な山田というキャラが出て来て言い
たい事あるんだけど忘れたというくだりがありますが、

あれって、ちょっと深読みというかちょっと妄想してみると、実は本当に忘れたんじゃ
なくて、照れてしまって、緊張してしまって、とっさに「忘れちゃった」と誤魔化した
のかもしれないと。

で、何をという事なんですがわざわざ「こんな時間」に訪ねているのですから、
改まって何か言おうとしていると考えるのは自然かもしれません。

 モシカシテ「告白」ジャネ。と邪推もできないかなあ。

そう考えると、この馬鹿の代名詞みたいなキャラがとっても魅力的に思えてしまうのは
気のせいでしょうか。

まあ、これこそ完全にカンキューなんですがけどね。

さて、そんなこんなで、旧来の営業という概念をすて、新しい、これからの営業という
ものを模索していこうと、時代に追いついて、あわよくば追い抜こうという気概 を
持ちたい、持たなきゃいけないと、今日一日、生きてみていろんな経験を積んだ結果
思う訳です。



 ご免なさい、前置きがとても長くなってしまいました。こっからが制作日誌です。

今日は趣向を変えてスケッチなど一切なく、適当なスチロール片を切り刻んでその
カタチから発想する、正しく「立体スケッチ」をやってみます。

ä¸�ã��ã��ã�®å��ã��å�ºã��ã�¾ã��ã��ç�ºæ³¡ã�¹ã��ã�­ã�¼ã�«ç��ã��ã... on Twitpic

�����������������The 2 It c... on Twitpic

����������頼�������It cuts... on Twitpic

������������������The4 It... on Twitpic

äº�ã��å½¢ã��決å®�ã��ã��ã��ã��ã�®ä¸�ã�«ã��ã�«ã��ã��ç��ã�£ã�¦ã... on Twitpic

å�­ã��ã��ã�©ã�³ã�¹ã��è¦�ã�ªã��ã��ç��ã�£ã�¦ã��ã�£ã�¦å®�æ��ã�§ã... on Twitpic

完成。といってもこれを乾燥させて、細かい手直しをする必要がありますが。

どうも、この企画をスタートしてから、デザイニングの真っ当なロジックに当てはめて
スケッチ→制作とちゃんとフェーズを踏んでいたんですが、つかキッチリとデザイン的に
デザインするには行程をいくつかすっ飛ばしていますが…まあそれはいいとして、

やっぱ、立体を作るにおいてはスケッチって別物なんですよね。現実とビデオゲーム、特に
RPGかな、それぐらい違うんじゃないかと。平面にきったない落書きしててもアイデア
って、そんなに出てこないんじゃないかな〜。と感じる訳です。個人的に。私的に。

彫刻において世界的に歴史的に有名な人物が、「彫る前の石の中に彫るべき形が見える」
 的な事を言ってるらしいのですが、要は、立体ってのは物質、構造として自立できなければ
存在できないです。善くも悪くも素材という制約に縛られます。ですが、その素材で成立しうる形を、成立できるように作る、要は「機能美」とでも言いましょうか。そいう類いの
ある種の「味」というものがあるんです。

ですから素材でスケッチするというアプローチがあってもよいのでは、と。

なんですかねえ、適当か分かりませんが理想というか、イメージは「円空仏」
ですかねえ。とにかく、自分の手で多くの像をインスピレーションで作り上げる。

ある種、自分自身に課せる修行みたいな。うーん、ちょっと、言い過ぎかな。

まあ、どうにも飽き症なもので、ちょっとずづでも変化を入れていかないと
 長続きしないもので…。

こういう即興的な作業は似非動画なり、動画でアップロードした方がいいかも。

今日もまた予想外のところで苦戦してしまいましたが、それでもまだ4時か、
悪い中でもまだ最悪にはまだ遠いかもしんない。と、思いたい。