雨上がりの後の公園。"Park after the rain."

いつもの公園散歩。雨のあがった午前中。



ちょうど 桜の木にサクランボが実って色づいて きてて梅雨前
ならではの風景なの かもしれない。

しっかし、真っ赤というか赤黒くて、血の色みたいでちょっと、グロテスクな
感じ。

「桜」の漢字の元となった赤い珠の首飾りにも見えるし、英語のチェリーという
隠語の元々の意味の語源みたく血の色にも見えなくもないですねえ。

いかん、話題も若干グロい方向に行ってんなあ。
これ以上は語りませんけど、気になった方はググりましょう。




制作中のアルバムを更新。日付で分けるの全ての制作中画像と
まとめてアルバムにするのとどっちが良いんだろうねえ。

雨のベランダの蜜柑の木と物干し竿の憂鬱。"Tangerine trees in the rain veranda, laundry pole on it and depression."

九州南部が梅雨入りだそうで。これって早いのか遅いのやら。

まあ、今年も例年通りの異常気象だったりしてねえ。

では、いつもの スライドショーの はじまり はじまり。
今日は日付でアルバムに してます。制作画像の後に
雨画像があったり しますが、まあ いいか。




雨っていいよね。風景的な意味で。

Rain and orange tree in front of the house.5
Rain and orange tree in front of the house.5 posted by (C)かゆきゅう

Laundry pole and drops of rain.1
Laundry pole and drops of rain.1 posted by (C)かゆきゅう

洗濯物を乾かすための物干し竿が雨で濡れている様というのも、
なんとも面白い組み合わせですねえ。

皮肉な感じ。

Painting work in progress.2
Painting work in progress.2 posted by (C)かゆきゅう

制作中。ちょっとした疑問からマトリョーシカについて調べていたら、
ちょっと作ってみたくなってやってみた。

といっても、入れ子状になってるわけじゃなくて、姿形を模倣してみただけです。

マトリョーシカといっても様々で、これは良いなと思えるかわいい やつ とか、
あんまり可愛らしくないものから、変わり種までバリエーション多いんですねえ。

マトリョーシカのルーツは箱根の七福神の入れ子人形という説があるらしく、

ある意味、縁起物の亜種ともいえなくもないかなあと。

縁起物であれば、今の私のフィールドな訳ですよ。


と いっても、最近の造形方法は、初期にあった様な中空な方式でなくて、インゴット的に
中の芯まできっちりとパルプが詰まってる 今までの 流れとは また違う 方式に 則って
造形しているのですが、まあ、これは、最初はサムネイルモデルと言いますか、

手の中に収まるような大きさの人形というかフィギアを作ってた流れの延長線上なんです。
GAISAIの出展準備中に限られた時間で作っていたのが、震災で中止になり、その後は
気を紛らわす為に祈ってた形たちがどんどん膨らんでいって大きくなっちゃったのが

カタチとして作っていく手順は殆ど雪だるまと同じですね。パルプを丸く固めた芯を
おにぎりの要領で丸めてそれをふたつをひとつにくっつける。

結果、だるま に ちかいカタチに なる訳です。この手法にマッチしている気がする のが
このマトリョーシカであったり します。

まあ、なんというか、リレー方式でどんどん作るものが変わっていってる なあ。





アルバム ノ コウシン。"Update of the album."

つらう つらと、寝ぼけながら たまったテレビ番組の録画を消化していたら いつの間にやら
寝てしまった。

一つの番組の再生が終わって、画面が停止しているのに何故だか気がついて、
操作しようと試みるも何も変化がない。

いわゆる金縛りではなくて、夢と現実の境目にいるようで、夢の中でリモコンを操作しても
それが現実に反映されることはないよねえ。

白昼夢としては ありきたりだったり するのでしょうか。


さて、話は変わりますが、フォト蔵のアルバムを更新しました。


Insect Image Collection 2011


主に接写で撮った虫画像を集めたアルバムです。




ベランダの蜜柑の木に花が付いたと思ったら、数日後にアミメアリが
集まってきてこの有様。

まあ、別段に害はないので放っておいてます。
むしろ、それよりも、アゲハの幼虫に気をつけていないとね。

大して大きくない木で、葉の枚数もそんなに多くない。

そんな過酷な環境に卵を5個以上産み付けるって、
哺乳類でない生き物だからって、無責任すぎじゃないかなあと。

一匹が成虫になるまで持つかも怪しいのになあ。

そんな誰特な状態を避けるべく、こまめにチェックしているつもりでも、
小さな幼虫が、生えてきたばかりの新芽をかじるのをすぐに気が
つけなかったりで、まあ、なんであれ育てるというのは難しい
ものですねえ。

で、そのかじられた新芽にアリがたかって蜜を吸ってる様なのですが
葉の蜜っておいしいのかなあ。


蜜柑の花の咲く頃に。"Now is the time of flowering orange."

 

今年も蜜柑の花の咲く季節ですねえ。
ベランダの鉢植えの蜜柑にも花が咲き始めました。

果たして秋までにいくつの花が蜜柑になるまで持つのでしょうかねえ。
そいや、蜜柑がの実が落ちにくくする薬剤ってのが世の中にはあるそうですねえ。

まあ、それは置いといて。

折角なので写真を撮っておいた。

単焦点+ワイドコンバータ+接写リングで思いっきり寄ってみたりもしてみてます。

やっぱ、単焦点とワイコンのコンボの良いところは強く光の当たって反射しているところが
発光しているようなエフェクトと、輪郭の所が光線の分離で微妙な色で発色する辺りが
お気に入りです。絞りは大概緩めるだけ緩めて1.8ですねえ。

やっぱし、写真は漫才、コントと同じでボケてこそなんぼですわ。写したい対象が分かる
というか撮った人間の視線を感じますよね。

たまたまシャッター切ったら写っちゃったじゃなくてね。
まあ、偶然が積み重なった奇跡みたいな写真もありますが。

でも、それも、日々、撮り続けているからこそできる芸当ですよねえ。

蝸牛の如く進み、願い続ける日々。"Go as a snail, wish to continue daily."



予定を立ててもなかなか達成は難しい。

自分が遅いのか、トロいのか。

予定が無謀なのか、自分が無能なだけなのか。

届かなければで諦める。それはしたくない。

届きそうだとか、そうでないとか。

それはもうだっていい。

諦めずに願い続けたい。作り続けたい。

あとどれだけ作れるだろうか。どこで終わりだろうか。

どこで突然に終わるとしても後悔のないように作り続けたい。


まあ、こんな思いもいつかは忘れるのかもしれません。

そんな様々な可能性なんてどうでもいいですね。

今は迷いを捨てて、思いを形にする事に専念致します。

Pulp molding, a slide show.



世の中、社会ってのはおもちゃ箱だね。いろんなものがつまっていて、お気に入りもあれば、
イマイチどうでも良いものもある。それぞれに愛着や、思いがあって、それで遊ぶ事で何か
を願ったり、想像したりする。
でもそれらは壊れやすくて、なくしやすくて、いつの間にか消えてしまう。部屋から
おもちゃ箱がなくなったのは一体何時の事だっただろうか。全く覚えがない。
遊んだ記憶はおぼろげながら、断片的に覚えているのに。

願いなんていつ忘れてしまうか分からない。人はいつまで明日を迎えられるか分からない。

だからその一瞬を、一日を、強く焼き付けて、その日その日に出来る事を出来るだけやらないと。
宵越しの銭を持たなかったという江戸の庶民の様に。

明日は必ずみんなに等しく来るとは限らない。

明日やろうと思う事を実行できるとは限らない。

今日出来る事は今日にしかできない。明日は明日の風が吹く。

もし、明日を迎え得られて、今日が昨日になったなら、その昨日を忘れないようにしよう。

忘れてもいつの日か思い出そう。

今日があるって幸せなことです。



おおっと、変な感じに脳みそ茹だってしまいました。

ちょっとクールダウン。


そろそろ、制作にも熱が入ってきた感じです。まあ、あれやこれや考えたところで、
状況が良くなるとも限りません。

身動きできなくなるぐらいなら、いっそ考えない方が良いかもしれません。

そもそも、制作において制御が行き届くタイプではないので、兎にも角にもフィーリングで
がしがし作っていくしかないですよ。

どうにも、中途半端にデザインをかじっている人間なので、コンセプト的なあれやこれやを
ネチネチとウジウジと考えてしまいがちです。

作りながら思考して、完成してから作品を理解するものですから、途中でこまいこと聞かれても
非常に困るですね。


まあ、なんというか世の中もですが、私個人としても、将来とか、安泰とか安寧を悶々と考えた所で
物事に絶対はないです。まあ、宗教ではあるかも知れませんが。

ああいうどうにもならない大災害、自然災害も人災もいつ来るかは分かりません。

心の安らぎを得たいという気持ちも一種の欲望ですよ。金銭、物質を欲するのとなんら大差ないです。
過ぎた欲望ってのは身を滅ぼします。それが世の常です。
身の丈、現状、将来性などなどのバランスを鑑みて妥協をしなければ、本当に自分の欲するものは
手に入りませんよね。

人は何かを得るにはそれ相応のリスクを負わなければなりません。

捨てる事の出来ない人間は拾う事はできません。

いくら「ものひろい」特性を持っていても、拾ったものをバッグにしまわなければ新しくものを拾えません。

きいろのそら。"Yellow cosmos."



庄内川をぶらぶら。ここいらでよくみかける黄色い花。コスモスかな。それをロウアングルでトライアル。
逆光上等な感じでせめてみた。

はなびらの びらびらが ほのおみたいで めらめらでいいなあ。

草花はやっぱり天に向かって咲いてるのが健全な健康な感じがしてよろしいですわ。

魔王って一体なんなのさ?"Maou, who are you?"

最近、テレビ愛知で「ハクション大魔王」が再放送されているのですが、やはり、今日日の
アニメーションにはない独特な味のあるアニメですねえ。

やはり、その当時であったからこそのものであって、今、同じ物を作れないし、作る意味もない
ですけどね。

一方、しっかし、最近の日本のアニメーション、絵とか動き、音声などのテクニカルな部分、
お話としての完成度はハンパないですね。

まあ、アニメーションに関しては単なる半可通でしかないのでこれ以上は止めておきますが、
「ハクション大魔王」の「大魔王」って、なんだかいわゆる「魔王」というイメージではない
ですよね。

特にテレビゲーム、ロールプレイングゲームの全盛期以降の人間からすると、

魔法は使う物の、強大な魔力がある訳じゃない。
大勢の配下がいる訳でも、世界征服をもくろんだりしない。
気が弱く、呼び出された人間の命令に従う。

というのはかなり違いますよね。

で、ウィキペディアで調べてみると、
魔王ってのは英語ではDevilとかArchenemyとなるそうで。デビルとかアークエネミーって
なんかニュアンスがちょっと飛んでしまってる気がしないでもないです。
キリスト教においての魔王ってのはサタン(ルシファー)、ベルゼブブなんだそうで。
まあ、サタンってのはイメージしやすいですよね。そして、某アニメの魔王の出自が
ベルゼブブって結構ひねった感じというか、ベルゼブブだからこそあり得た設定
ですねえ。どういう経緯で出来た話なのかちょっと気になるな。
つか、ある意味、現代版ハクション大魔王とも呼べるのか?

で、閑話休題。


「アラジンと魔法のランプ」に出てくるランプの精は
「魔神」や「魔王」とか「大魔王」とも日本語で訳されている事がハクション大魔王の
出自なんですねえ。

まあ、しかし、魔王と呼ばれながらも、ランプの中にいて、人の願いを聞くって何か、
魔王っぽくないねえ。

何かの罰ゲームなのかな。
何者かに征伐、封印されてランプの精となっているのねえ。それなら元大魔王?

いやしかし、なんでも叶える事のできる力がありながら、自分のためには使わない。
他人の願いを叶えるというのは、一見、善い存在に見えるかも知れませんが、これって
結構危険ですよね。

扱う人間の願いによっては世界を破滅、混沌の渦に巻き込みかねないですよ。
もしかすると、そこいら辺が魔王の目的だとかね。
人の欲望を暴走させて世界を破壊とか、ある一定量の人の欲望を吸収すると
ランプの封印が解けるとか。

うーん、なんというQB。というかオーズ的な感じ。

魔法のランプの前日譚みたいな話があってもよさげだなあ。神話的な物語が展開されそうな
気がする。


そいや、「アラジンと魔法のランプ」の出自って千夜一夜物語と言われているものの、
はっきりとはしていないそうですねえ。そして、主人公は中国人。

まあ、しかし、物語ってのは出自が曖昧だからこそ、面白い話になるのかもしれません。

えんぎもんず第弐集完成。



去年も制作を依頼されてつくったえんぎもんずの引き出物を今年も依頼されて制作。

数は少ないですが、微妙に進化しているつもりです。

前回は何をどんな感じに立体化しようか迷いに迷い、追い込まれたが故に、明らかに手数を
かけ過ぎてそれを60体というかなりしんどいものでした。

えんぎもの自体を自分自身、開運展を含め、それなりの数を作ってきたので自分の中で、
キャラ設定というかディテールをつかみかけているなと感じてます。

哲学の用語でいうところの「イデア」ですかねえ。馬と一言に言っても馬だって一頭一頭、
個体差があり、変わってる部分を擁しているのに、それであってもそれが馬だと分かる。
それを認識出来る普遍のイメージのことですね。

形としては現実に存在しないけどそれを作る事ができる。

存在として、頭の中のイメージが鮮明化して、ある種のリアリティをもってる。

そんな感じですかねえ。

まあ、しっかし、福犬がこなれてきて、自分自身は猫派なのですが、自画自賛ながら
かわいいよね。

鶴の造形も前は、まったくどうして良いやら分かんなかったけど、今回は方向性が
はっきりしている。

エビも同様。鯛もしかり。亀はデコレーションしまくってなんだかポケモンチックですわ。

もしかするとゲームのやり過ぎ、いわゆる一つのゲーム脳って奴かも知れません。

中途半端に妥協した物語に傑作無し。"The story of an irresponsible compromise is not a masterpiece."

一つの闘いが終わり、また新しい闘いがまた始まる。
一生ってのは常に始まりと終わりを繰り返す事ではあります。

まあ、そんな事はこの投稿には大して関係のない事であったりしますけど。

最近、わりと長く続いたラノベの最終巻を読んだのですが、正直、釈然としないというか
最終巻であるはずなのに、物語がキリの良い部分まで到達してない。

ラノベにしては設定が特殊で、ファンタジーな要素が少なめで、西洋の中世的な世界が
舞台だけれども、展開されるのはありがちな英雄譚でも、冒険譚でもない、お金にまつわる、
様々な儲けに絡んだ事件が展開していくという、異色なお話が面白くて読み続けていた
訳ですが。

まあ、さすがにそれだけだとラノベとして、エンターテイメントとして味気なさすぎるので、
ちゃんとファンタジーな要素もあったりするのですが。


現実的な側面を持ちつつも、あくまで作り話。

理屈のみで積み重ねていけば、まあ、あり得ないなんてことはないのですが、
ライトノベルなんですから、ジュブナイル的な要素を軽んじすぎてもそれはそれで
おかしいですよ。

夢の話なのに、何とも夢も希望もありゃしない。

どんだけ、チープであろうが、めちゃくちゃだろうが奇跡が起きても何ら問題はないと思うのですが。

救いが無いのなら、無いで、もっと絶望的な悲劇的な展開でいいのではないでしょうか。


変に、失敗しない、お互い傷つかない所で折り合いをつけるというのは現実的でしょうが、
ドラマチックじゃない。

仮にも、色々な、命に関わるような危険に遭遇しながらも、それらを乗り越えてきた主人公が
疲れてしまって背中を丸めて縮こまるような展開。いや、それすらもない、微妙なところで
妥協している、諦めてしまったかのような所で、終了なんて物語として酷いのではないでしょうかね。

物語の主役ってのは模範解答を出して満足するなんてことはしてはいかんでしょうに。

オールオアナッシングでしょ。

みんな無理だと諦める所にしがみついてこそ主人公でしょ。

各巻で、絶望的な状況を打破しておいて、一番の肝心要の問題を妥協するって、今までの
展開が勿体ないでしょうに。

なんでそこでもっと藻掻けないのよ。

「人はいつか死んでしまうから」なんて、ヒポコンデリーなのも大概にしておけよと。

人が死ぬのは心臓が止まった時でも、脳が機能しなくなった時でもない。
「誰からも忘れ去られた時」だろうに。

お金ってのは、経済ってのは極めて現実的な、唯物的なものに思えるかも知れないけど、
違いますよ。

お金ってのは人の思いの具現化したものでもあるんです。

だって、株価も通貨も物の価格だって、変動する時にはそこに人の感情が反映されている
でしょう。

事実無根であろうとも、人が想像して動き出すことによってお金も動き出すんですよ。

だから、お金とか、商売をテーマとして物語を描けたわけですから。

まあ、ウダウダ言いつつも、物語はそれなりに今まで楽しめたので、それはそれで良かった、
無駄でもないのですが、作家さんにはもう少し諦めないで欲しかったなあと。

作家さんの次回作を期待してお待ちしてます。くれぐれも一発屋で終わらない、ただのばくち打ちで
終わらない事を願っております。