はえのおう ハイズル "The fly which got damaged creeps the ground. "

 森林の様に木々が茂る、ネーミングもほぼそのまんまな公園の芝生の隅の木立の木陰の
ベンチで弁当を食べていると、左足の甲に虫が這ったような感覚が。いわゆる蟻走感というものだったか。

  視線を足下に向けた瞬間、小さいながらもでっぷりと太ったフォルムで二枚の羽の生やして、
憎たらしい複眼をこっちに向け足にしがみついている。空いている左右の前足どうしをごまをするかのように顔の前でスリスリとしている。

 もちろん蟻ではない。ここでは仮にFさんとしておこう。なんとなく。

 その瞬間に猫が足に付いた異物を振り払うかの如く、細かく足を振り、Fさんを払ったのだが、次の瞬間、想像していたのとは違う事が起きた。

 てっきり不快な羽音で、私の無意識に設定している領空内数十センチをジグザグに飛び回り、
不規則に領空侵犯を繰り返す。
 …かと思えば、揺さぶられた勢いにさして抵抗することなく、あっけなく草の地面にずんぐりと
した芋がぽてっと落ちるかのようにFさんは背中から落ちた。

 どうやら衰弱したか、怪我でもして飛べなくなり、そこいらを這いずっていると、たまたま私の足に乗り上げただけのようだ。

 普段、元気でピンピンしている状態であれば近寄れば、瞬時に殺意をむき出しにして、手頃な
殺傷器具さえあればただちに撃滅するような、親の敵か何かと同等のように敵愾心を向ける対象ではあるが、この状況下では、なんだか「もののあはれ」を感じて、「まあ、がんばって生きろや」と内心思ってしまうのは人間の性というものであるようだ。

 結局のところ、様々な事、人、物の善悪、正邪というのは状況に応じて移ろってゆくもので、絶対ではない。一時的な気の迷いなどとか瞬間の高揚感でしかない。それにのっかっるのはいつの時でも危険な事ではある。でもまあ、それは必ずしも悪い訳でもない。

 状況にのまれすぎない冷静さと、状況にすぐ混ざり込めるノリの良さというのはなかなか両立しがたいものではあるけれども。

 まあ、ともあれ、Fさんがその後どうなったのかは知る由もない。しばらくは若干伸びすぎた芝生
やせいぜい数センチの低い草をカタパルトのようにして飛び立とうとして落ちてを切り返していた
けれでも。いや、けれども。
 だけれども、彼、いや、もしくは彼女なのか、Fさんはこの広大な地球、世界においては重要な
意味など持ってはいないのだろう。でも私にとっては幾ばくかの意義を提示してくれたのだと
思ってしまう。

 なんだか、某ロックバンドの「超新星爆発」な歌のアイデアの基となった、命の尊さを教えて
くれた蟷螂みたいですなあ。

 ま、宇宙規模で考えたら人間と虫も同じようなものかもしれないですけど。

 それは「一寸の虫にも五分の魂」な話ですが、たしか本来の言われ方だと「ちっぽけな虫と
人間であっても等しく尊い」といった意味ですから逆説的な感じで、「どっちも無意味で
大差ない」という事になってますが。

  まあ、だから、価値も無価値も本質的には変わらないのかも知れません。ゼロベースで
世の中を見ればすべてにものは並列であってフラットです。

 そこに執着やら、欲望を含んで捉えてこそ意味があって価値がある訳です。それが生きる
という事、「生者の考え」なんでしょう。

  逆に全てを無意味、等価値と捉えるのは「死者の考え」といえるかも知れません。
まあ、死んだ人間が物事を考えられるのかというのは答えの出そうにない疑問ですが。

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