毎日おいしいご飯が食べられる事以上のしあわせは在るか?-More than happy to eat a delicious dinner there every day?-

なんでも、流星群が観られるらしく、Twitterのトレンドにも
「#流星群に何お願いする」というハッシュタグがトレンドに入って
いたりして。

まあ、こんな願掛けというのは大して益体のないものでは
あるのですが、こういうときににパッと自分自身の願いが出て
こないというのは、あまり、望ましくないというか、
生きている甲斐がないですよね。

例えば「毎日おいしいご飯が食べられますように」という
お願いがある場合。
額面通りに受け取れば、なんとも慎ましくも、幼稚な願いのような
印象を受けますが、

真の意味で「おいしいご飯」というのは何でしょうか。

一級や特級の厳選した食材、料理人や職人がその経験、技術、知識を
惜しみなく費やして完成した逸品。
というのはほぼ、間違いのなくおいしいものであるでしょう。

しかし、それを食べる人間の健康状態、精神状態などの
コンディションが万全でなければ、おいしく感じないかも知れない。
それどころか、
食べるという気も起きないこともあり得る。

「空腹は最高のソース」であって、
料理を食べる人間がおいしく頂こうという気持ちを
持って、食べられるお腹の状態でいなければ、どんなような
御馳走を、満漢全席を もてなされても、
苦痛にすら感じるものです。

適度に空腹でいるには適度に労働なり、運動なり、仕事を
していなければお腹は空きません。
それに食い扶持を稼がなければ生活というのは
成り立ちません。なんの努力もせずにタダ飯を食らっていては
本当においしい食事はあり得ません。
食べ物の価値が分からないまま、それを手に入れる苦労を
感じられなければありがたさを自覚しないまま
貪り食らうのはある意味、生命に対する冒涜でもあります。

ですから「働かざる者食うべからず」です。

食事というのは労働に対する対価である部分、ある種の報酬的な
部分もあります。「仕事の後の一杯」がおいしいのも同じような事かと。

料理というのは味覚が一番大事のような気がしますが、思っている
以上に視覚、触覚、痛覚、聴覚などの様々な感覚使っているもの
ということだそうです。

あ、痛覚も書いてるのは、唐辛子などの辛みを感じているのは
味覚ではなくて痛覚だという事です。

そして気持ちとか、記憶による部分も重要なものなのだそうです。

人間の特定の食物の「好き嫌い」というのは経験によるものが大きいもの
で、例え、おいしいものであっても、それを食べる前後に怒られたとか
悲しいとか、苦しいとか、嫌な記憶、辛い事があると、
そのおいしかったものが嫌いになってしまうことがある。

そして、食事というのはコミニケーションですから、一人で寂しく食べる
というのは、やはり、味気のないものです。

学校という、私が随分と遠ざかった場所には、友達を作れなくて
一人で昼ご飯を食べなくてはいけなくて、それを
他の友達のいる連中に見られたくないから、個室のトイレでご飯を
食べる、いわゆる「便所飯」というものがあるそうなのですが、

確実に「しあわせ」から限りなく遠い所にいるのは間違いないですね。


まあ、いろいろと「食べる」事について、だべって来ましたが、
ここ最近考えるに、思うに、おいしいご飯が食べられたと思った日
というのはしあわせである事の証左ではないかと。

一見、じつに下らない願いですが、そこに含まれる幸福感は
とても大事であると思います。

美味しいご飯の食べられない人生はしあわせであり得ません。

ノーフード、ノーライフです。