ぶらり道路の車窓から其の壱「山梨」

もう夏も終わりかけてますねえ。

お盆は皆様どう過ごされたでしょうか。

ウチは日帰りで中央自動車道で山梨までとか、日帰りで中央自動車道で信州

までとか行ってきました。

 

さいわい、東名道の例の崩落事故の影響をもろに被るタイミングを外れてか

さほど酷い渋滞に巻き込まれないですみました。

 

最近は運転をしないでもっぱら助手席がデフォルトな設定。

といってもナビゲーターと言う訳でもないです。カーナビは

付いてますので。で、何してるかというと、

 

字数はひらがな表記にすると8文字で、「し」で始まって「い」

で終わる、真っ暗な場所ではできない、レンズから取り込んだ

光を電気信号に置き換えて静止画像としてのデータを記録媒体に

記録する行為、そう、あれです。

 

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トンネルとナビ

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下り坂からの好景

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フェンスを越えて

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雲と山脈

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含みのある表現

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建ち並ぶ家々

 

動いている乗り物から写真を撮るのはなかなか難しいもので、

もたもたしているとあっという間に被写体は通り過ぎていきます。

 

でも、そこがいいんですよねえ。なんというかシューティングゲームというか

流鏑馬というか。

 

撮影という一見、静的に思われがちな行為に一瞬を切り取るという明瞭な

アクティブさを強く感じることができます。

 

撮りにくいからこそ、良いカットが撮れたときのの感動もひとしおです。

 

「其の弐 信州編前編 ~山の観光地は蕎麦ばかり~」にたぶん続きます。

キャラクター考察

キャラクターってのはいわゆる偶像。ある種の神様ですねえ。

信仰的な意味合いではなく、あくまで広義な意味でのね。

 

要とされる状況があればそこに生じ、その状況が

なくなればいつのまにか忘れ去られ、存在しなくなる。

 

まるで存在し、生きているように感じるが、自我というものが

存在せず、その代わりに、外部からの願望を存在の拠とするため

それが存在しなくなれば、関心がなくなってしまえば存在することは

できない。

 

人間は自分が自分を存在していると認識できれば存在を維持できる。

しかし、キャラクターは見ている、知っている人間の関心、執着心がなくなる、

見ている人間がいなくなれば、存在は消えてしまう。

 

見ている人の空想、思考の中である種の仮想的な自我が再生されている

に過ぎない。

 

仮想自我ってのは実在の人物、生きてる人間にもあって、その人物を見ていた

第二者、第三者が「多分あいつはこういう時はこうするに違いない」と想像する事で、

実際の本人が本当にそうなのかとは限らない。

 

あくまで、キャラクターという存在が起こす行動はだれかの仮想自我から

生じるもので、多くの人が思っているイメージとのギャップが大きい場合、

それは受け入れられない、そのキャラの存在感、普遍性、リアリティを

損なう。

 

実在の人、物ってのはキャラとして、偶像としての都合の良い要素のみで

構成されて存在していないので、その普遍性を損なう要素が多い分、

そのイメージを維持するのは難しい。現人神な状態はあまり長く続かない。

 

だから、実像が亡くなってイメージだけの存在になれば神になり、

イメージを失うとただの人になるのではないかなあ。

 

なんだか考えがまとまったようでなんか曖昧な気がする。

やっぱ日本語はむづかしいねえ。どうにも明瞭じゃない。

横文字、蟹文字は便利だけどかえって分かりにくくなるね。