Aigi Tunnel Group -緑と紅のトンネル群-

 

色々と考え込んでいる間に年の瀬に入りこみ、光陰というものはかくも弓から
放たれた矢の如くで、人老いやすく、学成り難し、なものだと思い至っている
今、現在であります。

例え、大幅に遅れていても、それでも、前に進もうとする、我が道を追求する
事を諦めるのもそれはそれで難しいものです。

まあ、ですから、この停まった時間を動かす以外に選択肢はない、というか、
選ぶまでもないですねえ。

上のスライドショーは先日、一般公開されていた愛岐トンネル群へ行って来ました。
下のスライドショーは春に行われていた同トンネル群の公開に行った時のものです。

こういう比較も面白いかと。新緑と紅葉、どちらもよいですねえ。


 


楽しいHOME展、展示中間報告 ”Exhibition interim report .”

-明星美術部展 リベラルアートな暮らし展- 「創作ピンホールカメラとその写真展9」
 無事に終了致しました。

「パルプ作家の楽しいHOME展」は好評開催中です。会期が半月を切りました。まだご覧に
なっていない 方はぜひともご覧下さると幸いです。ショーウィンドーからちらりと覗いて行く
方も多いですが、折角ですから中に入った方がよく見えますよ~。建物の構え的に、
ちょっと 入りにくいかもしれませんが、ウェルカムです。
 


土日祝日を含めて、一部平日も会場にて作品の手直しとか、制作などをしてます。


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DSC_4919.JPG posted by (C)かゆきゅう
8月31日


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DSC_4936.JPG posted by (C)かゆきゅう
9月1日


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DSC_4948.JPG posted by (C)かゆきゅう
9月2日


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DSC_4952.JPG posted by (C)かゆきゅう
9月5日

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DSC_5060.JPG posted by (C)かゆきゅう
9月15日

中間地点からの眺望。 -The view from a neutral. -

先日、パラリンピックも終了したようで、一連のスポーツの祭典が終わりました。

スポーツというのはゲームであって、ゲームというのは競争することを娯楽に
したものであると思います。

まあ、私の場合はゲームというと、まず思い浮かぶのはスポーツではなくて
ビデオゲーム、テレビゲーム的な方の今やゲームの代名詞としてのゲームですね。

まあ、テレビに接続する据え置き型も携帯機に比べればいまやマイナーな立場
な気がします。そして程度の差こそあれ、ネットワークに接続して不特定の誰か
と競うものが多くなりました。ゲーム専用機のゲームだけでなく、スマートフォンの
アプリケーション、パソコンのブラウザを利用した、いわゆるソーシャルゲームも
数多くあります。

まあ、それはそれとして、どんなゲームにせよ、「競う」事というのはどうしても
自分の願望、欲望を刺激されて、気をつけないと楽しんでいた筈が、強い
プレッシャーやストレスの元になってしまっている事がよくあるものです。

勝負して誰かが勝つということは反面、誰かが負けていると言う事は当たり前
な事なのですが、「人よりも優位でありたい」「あのトロフィーがどうしても欲しい」と
いう思いが強すぎると、不毛で不要な憎しみを抱えてしまうものです。

勝負に入れあげ過ぎて、同じチームに弱い人間がいると邪魔者扱いをしたり、
のけ者にしたり、自分の思い通りに事が進まないと暴れ出したりとか、
「たかがゲーム」の筈なのに、「楽しむ」事が疎かになってしまって、娯楽で
ある筈 のゲームでつまらない思いをするのはなぜなんでしょうかね。

ゲームであるからこそ、思い切りの良いプレーができたり、あり得ない程の
アクシデントをどうにか切り抜けようとするのが面白かったりしませんかねえ。

単にスポーツを観戦している場合でも国とか地域とか自分の価値観で
特定のチームを応援して勝ってスカッとする反面、負けてモヤモヤ、イライラ
というのもなんだかおかしなものです。

ただでさえ人が生きる上では避けられずに争ってしまう事なんてのは
沢山あります。例えば領土問題とか。

戦争ってのは人を傷つける事の代名詞みたいなものですが、人を傷つける
のはそれだけとは限りません。人を傷つける事なんて、無意識に、何も
考えなくても できる簡単な事だったりします。

相手を負かすというのは、相手にとても不都合な真実を突きつける事でもあって、
それが自業自得であれ、それなりにダメージを受けるもので、ある種の
精神的な暴力になったりもします。

ですから、例え「平和の祭典」などと称する様なイベントであっても
スポーツ、ゲームが競争するものである以上、暴力的な、乱暴な事が
どうしても つきまとう ものなのかもしれません。

…などとウダウダと語りましたが、それでも私はゲームをやるのも観るのも
止めませんけど。

「争う事」を恐らく、人類は止められません。しかし、その中でも必要のない、無用な争い
を判断して、避ける努力を忘れるべきではないですねえ。

勝敗などを過度に、常軌を逸脱するほどに固執した人間ほど醜悪に見えるものも
そうそう、ありませんし。


…っと、すいません、展示の話をしようと思ってしょっぱなに雑談入れようとしたら
雑談が本編になってしまいました。

ここで一旦切ります。


告知その3 -明星美術部展 リベラルアートな暮らし展-

告知が遅くなってしまいましたが、3つ目の展示情報です。

本日、8月26日より、9月9日まで、愛知県田原市の明星ライブラリーで開催される
「リベラルアートな暮らし展」に作品を出品しています。

こういう作品を展示してます。↓
とても雰囲気のある空間に様々なジャンルの作品が展示されてます。
ご覧頂けたら幸いです。


場所

【明星ライブラリー】

愛知県田原市中山町寺脇185
TEL 0531-33-0458

定休日 (火)、(土)  ※会期中は土曜日も営業とのことです。

http://myoujou.dosugoi.net/



展示のお知らせ その二 「パルプ作家の楽しいHOME展」



展示の告知の二つ目です。展示作品は殆ど私が作ったもので、それを活動基盤
であるSPACE9のユニットで企画した展示となってます。

展示場所がトヨタホームのショールームということで、ホーム、家を意識した
空間を計画しています。

考えてみると、過去のインテリア系の作品と最近のテーマ縁起もの、どちらも屋内、
家の中に置かれるものですねえ。

まあ、パルプは湿気、水分が苦手ですし、直射日光もパルプの色の退色を早めるので
無理なく活躍できる場所は屋内なんですけども。

家というのは考えてみますと「家財を守る 蔵」「人を守る 城砦」という機能を持ってる
ものですね。

家を建てると「一国一城の主」みたいな事を言われますけども、それはさほど誇張した
ものでもなくて、物理的にも精神的にも支えとなるものなのかも知れません。

それを「一所懸命」に守ると言う事はいつの時代であれ大切だと思います。

…展示の話と若干ずれてきてますので展示の詳細情報を。



場所は名古屋の地下鉄「久屋大通」駅B1出口近く、桜通沿いの
 トヨタホーム本社ショールームです。


会期は8月25日の土曜日から9月29日の土曜日まで。会期中無休。入場無料。

開場時間は午前10時から午後6時までです。

会期中、私は開場に常駐はしていないのですが、各週 週末辺りでワークショップ的な
事をできたらと考えておりますが、予定はまだ未定です。

展示のお知らせ その一 「創作ピンホールカメラとその写真展9」


なんだか随分とブログを更新していなかった様な気がしますが…、まあ気のせいですよね。

と、いった なんの益体もない事は適当にうやむやにしておいてですね、

8月の下旬に展示が三つあります。そのうちの一つは、実質、個展となっておりますが、
それはまた、別の話。

という訳で、まず、告知の第一弾は

「創作ピンホールカメラとその写真展9」です。


去年は震災の影響で半年ぐらい期間が ずれて、12月開催となっておりましたが、
今回は8月に開催となってます。

前回は初参加でとにかくカメラとして機能することで手一杯で、展示が「パルプ造形家」
としてイマイチ、アピールできなかったように思いますが、今回はもっと装飾的な展示に
したいなと思っています。まあ、でもまだ、カメラが完成しません…。

まあ、なんとか余裕があれば構造的には簡単な印画紙式も作りたいですね。


さて、大事な情報を忘れていましたが、会期は今月、8月の22日水曜日から
27日の月曜日の6日間です。

開場時間は午前11時から午後7時まで。ただし、最終日は午後5時で終了です
のでお気を付け下さい。

会場は名古屋、栄のナディアパーク、国際デザインセンター・4階デザインギャラリー
です。


端午の節句の午前十時

本日はこどもの日。

ということにちなんで武者風のパルプ製紙人形をアップ。



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DSC_3062.JPG posted by (C)かゆきゅう
 

こういう時節ものはその日より一ヶ月、せめて数週間は
前もってやるべきなのですが、制作が意外に手間取り
完成が昨日の23時というタイトなタイミングと相成りました。

まだまだ、こういう人形、フィギュアを作るというのに
まだ慣れないというか、作業工程にかかる所要時間と
実際の作業時間の誤差が大きいです。

まあ、背景 兼 収納箱に時間を掛けすぎてしまった
というのが大きいですかねえ。

紙を切って貼る作業をしだすと時間がいくらあっても
十全ではなりません。

つまり、完成しないということでもあります。

我流コミュニケーション論-Self-taught Communication Theory-

動画をwebにほとんど制限無くアップロードすることができるなんて
まあ、すんごい世の中になったものだなあと思える。

ISDNからネットを始めた人間からするとスピード的に、コスト的に、
ありえないよね。しかも無線でなんて、ある種のサイエンスフィクション
なレベルだよね。

まあ、そんな月並みの感慨なんて大して価値がないし、意味もない。

そのドラスティックな変化の反面、自分自身を取り巻く環境ってのは、
ディテールは変わっても本質的にはさほどの変化をしていない。

どんなコミュニケーションツールを手に入れても、使う人間の
スキル、性質に依存して、社交的な人はより幅広く、友達の少ない
人間はいつまでも孤独でいるものです。

でなきゃ、「ぼっち」だの「リア充」なんて言葉が存在している訳は
ありません。

デジタルデバイドという、情報端末を扱える人間とそうでない人間の
格差が叫ばれて、もう随分と、10年くらい経ってる気がしますが、
コミュニケーション能力における断裂、デバイドというのもあるんでは
ないでしょうかねえ。

このコミュニケーションデバイドってのはデジタルデバイドと違って、
機械によるものではなくて、コミュニケーション能力の差による
ものが大きいかと思います。

思っている事を他人に誤解無く伝える。というのは、想像以上に
難易度が高いものです。どうしても、人間は自分の感覚を真ん中に
置いて、自分を世界の中心として考えてしまいがちで、他人の感覚
気持ちを理解するのはなかなか難しいですね。

厄介なのは、ちゃんと伝えている「つもり」なだけで、他人には殆ど
わかってもらえない事に気がつかない場合が多々あるという所で、
とりあえず「伝えた」という行動、アクションに満足してしまって、
安心してあぐらをかいて、すれ違っている事に気がつかず、
気がついた時は後の祭り。というのはよくある話です。

逆に人の言っている事を「聞いた」つもりになっているけど、全く
理解していない。それどころか全く逆に理解している。なんて事
もよくあります。

まあ、ですから、コミュニケーションってものはとてもむつかしい
ものでそれ以上に、人が人として生きて行くにはとてつもなく
重要な事である。という事を念頭に置いて、きちんと「伝える」
事をこなしていくことをしていかねばなりません。

相手に「分からない」と伝えるのは相手を否定してしまっている
ようで、心苦しい面があるものですけど、必要な確認作業です。

コミュニケーションというのはギャップを確実に埋めていってこそ
信頼性を増して強固なつながりになるものの様に思います。


生きていく上でかなり重要な事なんですけど、その割りには
ちゃんと教えてもらえる事ってさほどないですね。

コミュニケーションって。

学習教科でもないですから、テスト、試験なんてものありません。
つまり、自分は苦手なのかどうかをなかなか実感できないです。

実体験で失敗、例えば失恋とかですと、割とよく自分自身が気に
しているコンプレックス、欠点を破局の原因と考えてしまう事が
理由として挙げられると思いますが、案外、重要なのは
コミュニケーションのギャップを丁寧に埋めるという積み重ねが
できたかどうかも大きいのではないかと。

ええっと、「恋愛は勘違いから始まる」とか言いませんでしたっけ。

まあ、ですから、その勘違いというギャップを埋められなければ
恋愛関係ってのはいつかは破局するものかも知れません。

人間、失敗してもちゃんと失敗した理由が分かる人間とそうでない
人間がいるものですが、そういう、「気づき」を持てる人間は
やはり、優れたコミュニケーション能力がある人だと思います。


人生においての失敗の殆どはコミュニケーションの失敗とも
言っても過言ではないかも知れません。

人生で起こる事の大半は勘違いに起因しているかと。


と、コミュニケーション能力については誰よりも自信がない
私が語るというのも、なんだか、ちゃんちゃらおかしい話では
あります。

てなわけで、この投稿の本来の目的である所の、「動画を
アップロードしたよ」から、カナリ脱線して、自分の
コミュニケーション低能の馬脚を露わにしていたりします。

ようやくカタチが見えて来ているかなあ。
三工程ほどパルプを盛った分の作業動画をまとめてアップしました。

三種類のものを作っていますが最終的にはひとつになります。


4月9日分






4月6日分





3月29日分





まあ、しかし、どうにも伝え方が上手くなくて申し訳ない。

まあ、でもどうすればよいかという事も分かりませんので、手探りでも
いろいろなカタチで伝えるという事を続けてまいります。


コミュニケーションで最終的に、究極的に大切な事はやはり「伝えたい」と
「ちゃんと理解したい」という強い思いがあるのかどうか。

気持ちというのはとても大事です。基本的に事実や真実よりも尊いものだと
考えます。


パルプをこねて回すという事は世界を回す事に等しい。

某、超有名な錬金術をテーマとした少年マンガによると、錬金術とは
3段階あって、まず、ものを理解し、そして分解し、最後に再構成という
手順を踏むそうなのですが。

パルプ造形も概ねというか、殆ど手順としては同じものです。

紙、パルプという素材の性質を理解して、その性質であるところの、
水を加えて力を加えるとカタチが崩れて分解する事を利用して、再生パルプ
に戻して、造形しやすいように脱水、糊などを加えて粘土状に練って
新しいカタチを成形、再構成して、それを安定化して、固着するために
乾燥させて水分を飛ばす。

まあ、陣を描いたりとか、ぱんと手を叩けば一瞬でカタチが出来上がったりは
しませんけどね。

そもそも、錬金術ってのはその字から分かるように、ごくありふれたものから
金のようにとても価値のあるものを作り出す事を目指した術ですから、
「パルプという、ごくありふれていて、さほど価値を見いだしにくい素材に
新しい意味をつくりたい」という、私の基本的なパルプ造形に対するスタンス
というか、思いとなんだかシンクロしているように思います。

まあしかし、紙の錬金術師というのもなんだか微妙な響きですねえ。
「紙」という音が「神」とかかってて、ちょっぴりかっこいい?

まあ、どちらかと言えば、紙というよりは「パルプの錬金術師」なんですけど。

しかし、まあ、どうにも中二病みたいな雰囲気を拭えませんので名乗ったりは
しませんけどね。

てなわけで、この投稿はまた作業風景の動画をyoutubeにアップしましたよ。
という告知の為に書いています。思いっきり話がそれてしまいましたけど…。



以下、作業動画↓↓




やはり、文章の遂行、いえ、推敲はモバイルPCとはいえ、キーボードに
限りますねえ。最近はスマホからソフトウェアキーボードでフリック入力とか
、サジェスト入力をキメて自己陶酔とか、わざわざ高精度な音声入力で
だらだら喋るとか、入力も多様化してきましたが、キーボードでカチャカチャ
やるのが指に適度な刺激がして脳が活性されるような錯覚がして実に
気持ちがよいですね。

まあ、しかし、どんなに「通」ぶってもそんなのは通でも何でもなくてただの
痛い人、つまり「痛」な人でしかないですね。

本当に文章や、文字が好きな人というのは手書きですよ、もっと言えば
数千年に渡り脈々と続いてきた毛筆こそが本物でしょうね。

コンピュータのフォントとは違って、書いた字というのは書いた人間の教養、
性格、心理状態すらも伝わるのですから、これ以上ない高密度な
コミュニケーション手段ですね。

ま、デジタルな物なんてのは、どうしても、極度に圧縮されてしまった、
カテゴリとかパラメータでソートされた仮想のもの、つまりは偽物でしか
ないですね。

まあ、ただ、偽物が悪いという訳ではなくて、偽物だからできる事だって
ありますし、オリジナルとは異なるからこそ偽物であって、その差異こそが
偽物の売りになる部分があるのかも知れません。

とにかく、広い視野こそが大事ですね。人間ってのは正義とか悪とかを
越えた更に大きな視点を持つ努力をしないと、幸福にはなれません。

と、言うだけは、以外に多くの人間ができますけどね。実践は簡単では
ありませんけども。

本題をかなり休題してしまった感もありますが、久々に長文を打てて
気持ちが良いです。

やはり、140字程度では言える事に、いえ、書ける事に限界が
あります。

「無駄」と向き合って、「無意味」を越えた先に見えるもの。

本日のパルプ造形の盛り作業をYouTubeにアップしました。
一部動画にはBGMを仕込んでいますので、音が出ます。ご注意下さい。


こういうメイキング動画にどれほどの需要があって、観たいと思う方が
いるのかどうかもよく分かりませんけども、一、作家、一アーティストは
制作物、制作の作業もワークショップ、ある種の時間芸術、作品とも言える
ものなので、試験的、実験的にやってみる事も立派な制作活動、アート活動
ではないのかと考えるものでもあります。



そもそも、資源のリサイクルというものは、一定の割合で、大きな矛盾を
抱えているものです。リサイクルする事によって生じるエネルギーコスト、
再生のために消費する資源を、出来上がる再生素材の品質、
生産コストを鑑みると、それに意味があるのか分からない。という問題を
孕むものです。



端的に言えば無駄。下手をすれば、ただの時間とエネルギーの浪費とも
言えなくもありません。

しかし、極論を言ってしまえば、人が生きる意味とは何でしょうか。
みんな生まれてたら死ぬだけです。いずれ無くなります。全てのものは
永遠ではありません。絶えず変化し続ける。それが生きると言う事です。

そんな、一見、冷え切った頭で考えれば無駄でしかない、生きると
言う事に何かしらの意味を見いだす事に意味がある。

人が無駄だとしか思えない事を突き詰めた先には、誰も知らなかった
意味が眠っているものではないでしょうか。

しかし、無駄だと思える事、確実性の無い事を続けるというのは、なかなか
どうしても難しい。

端的に言ってしまえばとても、とても、とても、不安です。怖いです。

それでもそんな事を続けるのは、ただの勘、曖昧な予感めいた、
「これには何か意味がある」という、なんとも非論理的なものであったり
します。




無駄は、無駄だと思った瞬間に無駄であり、ゴミはそれがゴミだと
認識したときに発生するものです。

ただ単に「リサイクル素材」という言葉が持っている「エコで何か良さそう」という
イメージに乗っかるような詐欺みたいな事はしたくない。

そういう思いを根幹に据えて、パルプを依り代にした制作を続けて行きます。




こねてはもる。こねては、もる。のくりかえし。

本日の作業風景を動画で記録しました。

パルプをこねる。

パルプをもる。


そして、このような机に。まだ未完成ですが、使いながら更に盛っていく予定です。


パルプのつくえ


梅の花に落ちる春の雨、略して…

梅雨と言ってしまうと全く別の季節になってしまいますねえ。

お久しぶりをしております。かゆきゅうです。




先日の日曜日に近所の東谷山フルーツパークまでサイクリングして、
梅の花の写真を撮ってきました

日曜とは言え、雨がぱらつく天気で、人は来てないだろうとも思ったのですが、
割合、賑わってました。今の時期はやはり、梅の花ですかね、あと菜の花も
咲いてました。

名物である枝垂れ桜はまだまだ先ですねぇ。


とある制作のキロクのあり方 -Production of a certain way of recording-


一眼デジカメを新しくして、動画撮影機能を使えるようになって高画質な動画を記録できる
ようになったのは良いのですが、さすがにデータ容量が格段に増えて扱いが難しいです。

デジカメと一緒に購入したEye-Fiという無線LAN経由で記録した画像をPCやスマート
フォン、ウェブサービスにアップロードしてくれるSDカードを介していますと、非常に重たい
です。

LAWの生データはまあ、我慢できるギリギリなのではありますが、動画はどうにも…

その上、持っているPCのスペックではまともに再生出来ずにカクカクというか、紙芝居レベルで
コマが欠落するという、なんとも御しがたいのですが、ユーチューブにアップして変換されると
割合普通に視聴できるのでこれからハシハシとバシバシと上げていこうという予定です。


霰混じりの雨と茶殻粘土。-Rain and hail mixed with clay tea leaves.-

あっさりと、さっくりと制作日記。

晴と雨の廻間。 on Twitpic

先日の冷たい雨。水が冷たすぎて痛いぐらい。
まあ、そうは言っても、パルプは水を使わないと戻せないからねえ。


茶殻を粘土にして作ってみた。 on Twitpic

先日、茶殻をパルプに混ぜた所、葉っぱに触れていた部分の
パルプがオレンジ色に染まってたんだけど、何が作用したんだろう。

今日は茶殻を荒いものの抹茶状にしてそれに糊を混ぜてを粘土に
してみたり、パルプと混ぜてみてるけど、オレンジ色に変色はしない
模様。まあ、当然といえば当然。

パルプ造形もまだまだ分からない事ばかりだなあ。

ええと、上の画像はサイトのマスコット的キャラクターしょうたの茶殻人形。

やっぱり、パルプと混ぜないと、なかなか扱いづらいですわ。茶殻粘土。

年の初めの制作記。-Production recorded at the beginning of the year.-

正月の3日を過ぎてからの時間経過、光陰の早さが体感的に
あっという間な気がするのは何故だろう。

早々に片付けたい事があるものの、現実の進捗具合の芳しくない
のは埋まりそうにない。

だけども、だけれども、そこで、完全、完璧を求める余り、現状に、
今の自分に失望して、そこで投げ出しては意味のないものです。

諦めずにいきましょう。

バケツを型にしてパルプでバケツを作る。 on Twitpic

今の制作のテーマは原点回帰的に、「実用の美」と言いますか、
実用実験、実証試験みたいな感じです。

原型を型にして物をつくるというのは、なんだか生物の増殖の
過程みたいなものですね。

不完全なコピーを繰り返して、生命は進化なり、変化するものです。
その変化が環境に適応しやすいものであれば、そこでその特徴を
持つタイプが繁栄してゆくものです。

人だって、絶えずに変化していって、環境に適したカタチを見つける。

たとい適応できなくても、そこで留まらず、変化し続けられれば、
新しいカタチに変化していければ、いつかは世界と調和するもの
です。

まあ、世界、環境というものも絶えず変化を繰り返しているものですけどね。



消えゆく正月の情景に。-New Year's Fading scene.-

明けましておめでとうございました。


と、もう明けた年に対しての感慨に浸っている事もしていられないので
平常営業で張り切って参ります。

といいつつも、お正月のおせちの残りみたいに残滓感が否めなくもない
ですが年賀状の元イラストとか、新しいカメラでとらえた新しい年をアプして
置いときます。



当初案では干支の辰をキャラ化したマスコットをあしらおうと思っていたのですが、
いまいち「おめでたさ」が出ていないのでフィーリングで描いたらこの下図の様に
なりました。


縁起物を並べていったら、干支を入れるの忘れた…。
でも、こっちの方が賑々しくて良いのでこちらを採用してます。

おせちも、近年は不要論が叫ばれて久しいですが、やらなくても良いという
風潮がありますが、あえてやるのもいいかなと。「面倒くさい」ってのは言い出したら
キリないですからねえ。

ある意味、何でもやりたくなくなる魔法の言葉ですね。人生は面倒くさいものです。

まあ、そんな事言っていても始まらないし、「めんどくせえ」が口癖の主人公なんて
格好悪すぎるでしょうに。まあ、どこかに居たような気もしますが。そんな主人公。

まあ、しかし、やはり、年の始まりというのは大事な物です。年の瀬に新しい年を
気分良く迎える為にも、自分の中で精一杯の新年を祝うという信念を、そういう
余裕というか、心構えを持っていたいものです。

無駄だと言って省くのは簡単な物ですが、ばっさりと切り捨てた後の
空しさ、ある種のみすぼらしさは、何か生きる事に前向きになりきれない
ですねえ。

やった後悔とやらなかった後悔のどちらが良いのかという話です。


人生ってのはもしかすると自分の中の「面倒くささ」と常に戦う事なのかもしれません。

面倒臭き世を面白く。





 

例年通り、とは言ってもいつもだと、三が日には行ってないのですが、今年は
3日に伊勢神宮の内宮へ参りました。

現地に到着したのが午前6時前で、薄暗い青みがかった空とおかげ横丁というのは
随分と独特の雰囲気でした。まあ、参拝した後の事を考えると早すぎて横丁のお店
がまだ開いていない所が多くて、寒くて大変でした。あと一時間遅いぐらいが丁度
良いのかもしれません。


まあ、正月の話をダラダラと徒然なるままにタイプしてきましたが、本年も、本年こそ
宜しくお願い致します。旧年中はちょっと小さめの作品ばかり作ってましたが、今年は
原点に帰って、大きいインテリアやエクステリアを作って行きたいと思っております。

ウェブ上でも作品を売って行こうと模索中です。

それに向けて制作環境を1月中には整えたい所です。