吹けど響かず。押せど動かず。Sound the trumpets blowing come out even. Undaunted even by pressing the mountains.



あいさつをしても、そこでまず構築される人間関係は顔見知り程度ではないかと。
まあ、それを友達と称してもさほど差し支えのないモノとは存じますが、なんというか
根本的に何かがちがうのではないのでしょうかと。

親友、悪友というのはぽぽぽぽぽぽぽ~んと一瞬で虚空から出現するものでは
ありません。

そもそも、その場に存在していない対象にあいさつなんて出来るのでしょうか。

「魔法の言葉」なんて適当な売り文句を並べて立てるが、魔法ってのは本来的な
意味では「人を惑わす技法」に過ぎません。極端に言ってしまえば嘘です。



定型文、紋切り型の中の王様です。キングオブモンキリです。あいさつというものは。


どうしても気持ちを込めずに乱用してしまいがちです。


そもそも、「おはようございます」というのは本来の意味としては違うでしょう。

業界によってはその日最初に会った人に対して「おはようございます」だったり
します。朝昼関係ないです。早くないじゃん。

小学生低学年の大半は「いただきます」を「板抱きます」としか理解していない
でしょうに。

ちゃんと心を込めて「ありがとう詐欺」もとい、「ありがとう」って言える人間は
どれほどいるでしょか。


自分自身がフレンドリーな雰囲気、言葉、仕草、態度で相手に接してこそ友達は
できるものです。

言葉だけで、態度が伴わないのではぶっちゃけ無理。


とはいっても、人間ってのはとかく勘違いをするものです。
ちょっとしたきっかけで人を好きになったり、嫌いになったりします。

恋愛ってのも結構、勘違いから始まるものですよね。

まあ、そういう関係ってのはなかなか続かないものです。

上辺だけの付き合いだけでは人間はいつまでも孤独なままです。

まあ、だから、友達がいないというのも勘違いして上辺の付き合いをしてない
という点ではある意味マシかもしれません。

「友達を作ると人間強度が下がる」とも言いますし。


はい、ここまでちゃんと読んで頂いた奇特な方。

「なんかこいつ下らない事でネチネチうるさいな。こいつ友達いないんじゃね」

とお思いかと思いますが、


正解です。


まあ、いないというか、かなり少ない。

と言っておかないと語弊、誤解が生まれるかな。


うだうだと書き連ねましたが、コミュニケーションってのは理屈より感情が大事
ですねえ。あとポジティブさも。


そうだ、勘違いされるといけないので補足。

別に私はACのテレビCMが嫌いって訳ではないですよ。

むしろ好きですよ。ネタ的な意味で。


まあ、しかし、この一大事がなければここまで注目もされなかっただろうに。

ある意味、時代に選ばれたのかもしれませんね。

おそるべし。「ありがとウサギ」いや、「こんにちワン」だっけか。


以下、土曜に展示のミーティングで豊橋まで行って来ました。
ある意味、お土産画像。

Toyohashi City manhole cover
Toyohashi City manhole cover posted by (C)かゆきゅう


Toyohashi City fire hydrant cover.
Toyohashi City fire hydrant cover. posted by (C)かゆきゅう

Sun river level.
Sun river level. posted by (C)かゆきゅう

Gas cap.
Gas cap. posted by (C)かゆきゅう

いやあ、豊橋は下を向いて歩いてるだけでも面白いですねえ。

手筒花火の絵柄をあしらった消火栓、マンホールは比較的新しいものでしょうか。
ガスを瓦斯と書いてる蓋も時代がかっていていいなあ。


Route 1 and Toyokawa road intersection.
Route 1 and Toyokawa road intersection. posted by (C)かゆきゅう

いや、なんか久しぶりだなあ。川崎から自転車で帰って来た時に浜松辺りからは
国道一号線を走ってきたので良く覚えてます。自転車スロープが降りる側に
ついて無くて担いで降りててこの斜めに設置された看板を撮った記憶がある。

探せば出てくるはず。探さないけど。

前回は一号線を、今回は県道400号線こと豊川街道を歩いたんですけど。

言わば過去の自分と現在の自分が同じ交差点で全く予期していなかった理由で
交差したんですねえ。


個人的にすんごい感慨深いなあ。まあ、分かんないでしょうけど。



さて、制作のほうはと申しますと、ホント申し訳ない事ですがこの前代未聞の
大惨事をきっかけに自分の中でかみ合っていなかった、というか欠けていた
歯車がぴったりとはまった感じで、

制作のモチベーションは悪くないです。

縁起物で験担ぎが祈願に、願いとか、祈る、というなんだか宗教くさい方向に
向いてきて、なんだか気持ち悪いかなあと思っていたんですが、このご時世
ならば、祈る事は別段、異様な事ではないかなと。

それまでのわだかまりというのかブレーキが外れた感じです。

これからしばらく、時間をかけて、コツコツと作りながら祈ろうと思います。

飽きっぽい私ですが、どれだけやれるか自分を試すような感じでもあります。

祈りというのは、長く祈ってこそ価値が、真価が問われるのではないかと思います。

一時の感情の高まりで、一気に突っ走って、しまうのはなにか違いますよね。

いまのこの旬なタイミングを狙ってパフォーマンスで終わってしまうのは浅薄
ですねえ。

今、必要なのはもっと長い時間を想定して、持続的に動く事でしょうに。