開運展展示プランイメージラフスケッチ其の弐 Fortune exhibition, painting exhibition rough sketch of the plan. II

展示アイデア、ギャラリー部分です。

古くから言葉にも魂が宿るともいう訳で。字というのも開運をもたらす為に重要な
役割りを持っているものではないでしょうかねえ。

そいや、
去年のライブマーケットでは[SPACE9]の屋号を立体で作って板にかざりつけてました。
文字を造形するというのも面白いかもです。いわば、立体レタリング。

習字は苦手ですが、高校時代はデザイン科でポスターカラー、カラス口を使って
レタリングしてたなあ。確か、レタリング検定3級という微妙な資格も一応取った
ような気がする。まあ、今日日、デザインの現場でそいうレタリングはしないだろう
けど、

ある意味、この立体レタリングで、そのキネズカが役に立ったり…しないかな。

で、展示イメージに戻るけど、賑やかしさを出す為にはやっぱりカオス。混沌として
た方がらしい気がするのだが、あまりにも行き当たりばったりなのもダメかな?

カオスを計画するというのも変な感じですが、まあ、そんな方向で。

開運展展示プランイメージラフスケッチ其の一 Fortune exhibition, painting exhibition rough sketch of the plan. One

エントランスの吹き抜け部分、「かみのもり」のイメージ案。

もう、開催まで3ヶ月を切りましたので餓死が死、いいえガシガシとイメージをカタチに、
頭の中に抱いた考えを生命体に昇華させるべく、恐れず、騒がず、止まらず、止まらず、
淀まず、澄まず、張り切らず、憚らずに生きましょう、いえ、行きましょう。

だいたいのイメージは頭の中にあるので、其のイメージをこまめに伝達、発信して行かん
とね。そういう、クリエイターにとって必要不可欠な部分に欠陥があるのは自覚して
おります。とりあえず、苦手を苦手とせず、無理を無理とせずにとりくんでいかないと
 自分自身のリミッターを外せません。諦めたらそこでゲームオーバーですよ。

どうもね、人に認められない生き方ばかり選んでしまいがちなんですが、それでは
いかんのですよ。生きる事もままならない。だからこそのこのテーマ「開運」なんです。

熱に浮かされて見る夢のリアリティと死の話。Reality and dreams about death in fever.

胡蝶の夢なんて言葉があるように本来、夢と現実を区別する明確な明瞭な
基準は無いと思います。

しかし、これは現実だと確証のない確信を持って生きているわけですが。

先日、夏風邪で熱を出して虚ろな感じになっているとなんというか現実感が
希薄に感じられるという体験をしました。

後日、あの感覚は何なのだろうと考えて、いるとなんとなく分かった事が。

現実感ってのは感覚器官で感知できる強い情報。
非現実感ってのは感覚器官で感知しにくい弱い情報。

なのではないかと。

高熱によって現実感が損なわれた状況で自分自身の身体に何があったか考えると
体調不良による五感各感覚器官の機能不全。つまりは感覚器官の受信感度の低下で
通常は現実と思えるレベルの情報量を得られかったのではないか。

高熱でなくとも飲酒によって酔った状態でも現実感が鈍る事があるのを考えると、
まあ、間違いではないのかなあ。

で、話は変わって、昨日見た夢なんですが、夢なんでいろいろとツッコミを入れ出すと
キリが無いですが、いざ夢の中にいると、夢だと気が付かない物なんですよね。
ものすごくおかしい事だらけなのに。

大概は覚めるまで夢だと気が付かないものですが、珍しく今回は起きる間際に気が付き
ました。きっかけがじつに些細なもので、普段外出時に使ってるメッセンジャーバッグ
が夢にも出てて、通常は宿泊とかしない限り肌身から離すはず無いのに、ふと気が付いた
瞬間にそのバッグが無くなっていて、これは絶対におかしい。そうかこれは夢だと思って
目が覚めました。 ん〜、なんかすんごい根拠としては弱くないかと思うんですが…。

夢の中にいる自分ってのは、ある意味、今、人生を生きてる自分と同じもので、
夢で展開されるおかしな出来事に違和感を抱かないのと同様に、今、生きているから
こそ、執着して気が付かない事があるのではないかなと思います。

例えば死ぬという事は生きている人間にとってはそれこそ、文字通り死活問題です
しかし、死者からしてみれば、死ぬという事はもう過ぎ去った事でもあるし、そもそも
生者と同じ様に意識があるかも分からない。 生きている人間が死をそれほど特別に
考えているならば、死者と生者の感覚には大きな隔たりがあるのではないかなあ。

だから、死が辛いのはあくまで生者であって、死者は死を辛いとは考えないのでは
と考えても不思議ではない。

たとえ、どんなに酷い最後であっても亡くなった死者自身は安らかに眠っている
ものじゃないかと。

その最後が辛いとか、悲しいとか、 疚しく思ったりするのはその死者の近くにいた
生者なのではないかと。死者を弔うのは、その死者の為ではなく、その死によって
傷ついた生者を癒す為の儀式ではないかと。

まあ、藐然とそう思うに至る。今現在。

いけんなあ、またメメントモリーな話してんなあ。展示に向けてお祭りな感じで
お気楽極楽な空気を出したいとおもってんだけどなあ。根が暗いのか?

まあ、でも、死と言うものはネガティブに考えがちですが、実はそんなに暗くもなくて
重要なことではないかも知れません。

学生時代に深刻に悩んだ事を今考えるとバカみたいに思える様に。