運命散歩論

 

散歩っていいねえ。散歩最高。散歩最上。

空前絶後。抱腹絶倒。牽強附会。

まあ、冗談はさておいて。

 

未舗装の道を、道無き道を歩くのはいいね。
コンクリートとかアスファルトってのは
車輪を転がすには都合がいいけど、あんな平坦な
扁平な、フラットな削れず、凹まず、省みず、
踏むものすべてを拒否するような固く冷たい人工地面の
上を歩くのはただ、靴底を鑢で削ってるだけだからねえ。

散歩というのはね、本来的、根源的には地面との、もっと
大きく大言壮語を吐いてしまってもいいなら。許されるのなら、いや、

許されようが許されまいが言ってしまえば、

「地球との対話」であると、「星とのコミュニケーション」であると。

重力という絶対無比の力に屈しないようにいることは
生きているという事と同じ事ではないしょうか。

死ぬという事は重力に屈し、負けを認める事でも
あるのではないかと。一つの生命、自立した個人から
ひとつの星という塊の中にまた戻るという事。

重力にどう逆らい続けるかということは、人生をどう生きるかと言うことと同義。

重力というのは生命にとって逃げる事のできない「死」で
もあるし、「運命」と似ているのかもしれない。

どれも常にあって目に見えないもの。そして忘れてしまいがちなことでもある。

しかし、それを心の隅に置く事は大事なものであるかもしれない。
「死を忘れるな」といった言葉もある。

重力を知る、感じるには、歩くこと。感覚を研ぎすまして、足で
大地に触る事。例え直に触れなくとも、靴を間に挟んでも
感触というのは伝わる。草の上なら柔らかい感触。砂利道
ならゴロゴロとした塊の数々を、泥濘ならぐちゃぐちゃと
いう足音と気持ち悪い感触を。砂の上なら沈んで引きずり
こまれるような感覚を。雪の上なら片栗粉を握った時の様な
ギュッという奇妙でユニークな感触を。

どこが自分にとって心地の良い場所か、それが分からなくても、
いま自分が行る場所が心地よくないかどうか位は分かる。

もし、居心地が悪いなら、そこから動くべきである。
生きるものなら当然の事。意識すらする必要すらない。

自分自身の運命を開くには、スタートさせるには動く
事が必要。もしくは必須。いや必然。

そして、どこから、どこへ、どう動くべきかという事を
マネジメントなり、ロジスティクスをして我が身を運ぶ
ということをしなければ自分が居るべき場所ってのは
見つからない。分からない。到達できない。
たどり着いたことにすら気がつかない。

まあ、なんか戯れ言ですね。

庄内川を散歩しつつ、たどり着いた川下のホームセンターでちょっと前に
話題になったタジン鍋が980円なのを見つけて試しに買ってみるかと思いつき、
また庄内川を上流に引き返しつつ、そんな他愛もない事を考えてみた
日曜の午前だったりしました。

なんか、予想以上の分量の文になったねえ。

なんか、期せずして今度の展覧会のコンセプト、テーマ、
というよりもメインフレームと目してる

「開運(オープン・ロジスティクス)」

って言葉につながるとは思いもしなかったねえ。