じゃがポタ雑煮と考察(邪推)

 

朝、といっても、もう朝と昼の間ぐらいの時間か。
あいかわらず、体はだるい。喉が気持ち悪い。
まあ、といってもそれほど問題ない。

残り物のじゃがポタージュスープ、といってもポタージュ
の詳しい作り方は知らないので、バターを鍋に溶かして
小麦粉を入れ粘土状になじませて、ついでに薄くスライス
したジャガイモを入れて炒め、そこに牛乳を少しづつ
入れて溶かしたスープをそう呼んでいいかはまあ分からない。

それに、乾燥しすぎてカチカチになってしまったバゲットを
適当にスライスしてじゃがポタの中に投入して煮込んで
洋風粥みたいなものを作ってみる。

それと、ついでに、ごまさばの味噌煮も作っておく。夕食用に。
だしつゆを鍋に入れてそこにタマネギ、トマト、エノキダケを
入れて煮て、さばの切り身を入れ、刻みしょうが、酒、みりん
を入れて少し煮込む。そして赤味噌。軽く煮込んで、後は、
夕方また煮る事にしよう。

今日は隠し味に紫の「野菜生活」、ケチャップを入れておく。
まあ、だれも気がつかないだろうなあ。

ではじゃがポタージュ雑炊を食べよう。

これは粥というよりは雑煮といった方が近いかな。バゲットが
ふやけてもっちもち。グルテンの粘りがこれほどとは。味も上々。

「じゃがポタージュのバゲット雑煮」とでも呼ぼうか。

食べながらいろいろな事を考える。思い出す。

 

先日、テレビでまた「ナウシカ」が放映されていた。
何度も観てるんだけど、何度でも観てしまうねえ。

そいや、漫画版を2~3年前に買ってもっていたなあと。
で、放映終了後、一気に読み返してみた。

比べてみると映画と漫画では結構違いが多いけど、
映画版は一つの完結した映像作品として上手く
まとまってるなあ。内容を上手く2時間ほどに
収まるようにダウンサイズされてるし、映像表現的に
分かりやすい描写に変更されてる部分も見られる。

原作と監督が同一人物だから要約が上手くいってる。
にしても世界の巨匠と呼ばれるだけのことはある。

で、後日某放送協会の教育チャンネル観てたら森の
生態系、主に土の中の生き物に関しての理科系の
番組が放映されていたんだけど、まさしくナウシカの
世界だった。

木の葉を分解するダンゴムシ。その糞や、死骸を分解
する菌類。

菌糸に覆われたダンゴムシはまるで息絶えた王蟲に
見えた。だから、ナウシカの世界ってのは、菌類と虫の
大きさが人と逆転、もしくは菌類と虫が巨大化した世界
なんじゃないかなと思った。

しっかし、本当に宮崎駿の情熱と博学さはとてつもないなあと。

そう思うと自分の中途半端さ加減には滅入るばかりだねえ。

今の活動は決して一人でやってる事ではないのだけど、
何だろうなあこの孤独感。個性的な集まりだから基本、
チームプレイはしないんだけど、なんというか、真庭忍軍ばり
に団体行動できないなあ。基本、リーダー不在。しかし一応、名前
もあるグループである以上は集まり、集団として、機能する最低
限度があるわけで。結局の所、主導する人間がいなきゃ上手く回る
わけはないわなあ。無秩序の象徴とされるような某巨大掲示板サイト
であっても管理人というのはいるわけだからねえ。

だれもリーダーになりたがらない。そういうんだったら自分がやれよ
という事なんだけど、まあ、どうかなあ。自分。

個性的な人間の集まりということはさ、自ずとモチベーションの差と
いうのはあるし、学生時代はともかく、現在の各々の置かれてる環境は様々。

意志疎通もツーカーとはいってないでしょ。意識のズレ、思い違い、
勘違いも多い。そのギャップを埋めもしないければ、その集団の
集まる意味はなんだろうねえ。

街の人混みの中の独りぼっちと、無人の荒野に独りなら、
荒野に独りの方がまだマシな気がする。

変に他人に期待せずに、自力でどうすべきかを邪魔されずに考えられる
からねえ。

まあ、文句があるなら、自分で動けという事ではあるんだよねえ。

自分自身、積極的に動けない、動きたくないのは、まあ、自分の嫌な
部分に向き合わなきゃならないからだねえ。

平素、まなるべく目立たない様に、主体的なとこにいない理由は、
自分の意見、意志というものを示さないといけないから。まあ、
基本的に他人、いや、世界を信用してないというべきか。当たり障りの
無いように取り繕って、適当な距離間でいたいだけ。それより遠くても、
近くても気分が悪い。

変に物分かり良さそうにしているつもりでも、それはちがう、
「おとなしい」ってのは単に壁を作ってるだけ。

まあ、気がついてる人間は気がついてるとは思うけど、自分ってのは
どうしようもなくワガママでね、小さい頃は相当、親の手を焼いてたと
思う。まあ、いろいろあって、そういう面は必要以上に押さえ込んで、
一応は真面目にはしてる。でもそれは、とても疲れるんだよねえ。普段、
無理をしてる分、そのリバウンドは激しい訳で。

差し迫った状況になると、よくちゃぶ台返しをやる。

それまでの柔軟さが薄のように嘘のように一気に硬化する。

関係がこじれるとそのままサヨウナラ。

まあ、自分が動き出す段階は大概、オシマイな状況である場合が多い。

まあ、ただ、そんな気持ちの悪い関係を続けていくのも、時間の無駄な
気はする。

そんな訳で、オシマイをハジメようかねえ。

-などとか、うだウダと、雑煮をはふはふしつつ。
そして続ける。

 

そうか、カーリングはフィギュアまでのつなぎだったのかとか、

とりあえず目立った人間が三人いると三銃士と呼んだりもするけど、
三銃士というと三人じゃなくて四人じゃないかと。

ダルタニアンのいない三銃士なんて駄目だろう。
盛り上がりに欠けるじゃないかと。

あと銃士のくせになんでマスケット銃を持ってないんだよと。

刀を持たない剣士じゃあるまいし。まあ、中国には弓矢を使わない
弓の名手の伝説もあるというし。

まあ、銃を使わない銃士。それはそれで強そうだ。

 

あと、最近は巷で話題のツイッターでいろいろとつぶやいてはみた
けども、なんか、もうここいらがピークじゃないかなあ。

ミクシィみたく。

フォローが多くなりすぎると読むのに時間がかかる。字数が少ない分、
後々、ログを見ても分かりづらい。説明が足りない分、誤解を生じ
やすい。

削りこんで、めんどくささを減らした結果、コンビニ的に便利では
あるが、更新速度がさらに上がる。即興的な要素がどうしても強い。

行為が義務に感じた瞬間に一気に疲弊する。便利が普通になった瞬間に
メンドクサくなる。

いわゆる、「ミク疲れ」同様に「ツイ疲れ」も起こるのではないかと予想。

あと、ブログのネタつぶしになっちゃうんだよね。
「文章を書きたい」という欲求が中途半端にガス抜きされてしまって。

あと、変に一人じゃないという安心感もある意味良くないでしょう。
常に心に戦場を持っていたい人間からすると。

 

などと下らない事を考えながらじゃがポタ雑煮を平らげた。

さて、やるか。今日も。

ブログお悩み相談室

 

お悩み

アニメ、漫画、ライトノベルなどによくでてきますが、
獣の化身である記号として頭に猫又は犬の耳が生えている、
おっと、「猫又は、」と書くと「猫の妖怪は」と書いてるのか
「猫、または、」と書いてるのか分かりませんねえ。

もちろん後者です。

で、そういう獣の耳をしたキャラクターがいますけど、
あの耳って人間の耳に追加して更に獣の耳があるのではなく、
人の耳が変化してあの頭の位置にあるというタイプがだいたい
主流なようですが、ちょっとそれって気持ち悪いなあと。

耳は音を感じる器官ですね。耳というのは外側の耳殻部分
だけで構成されてるわけじゃなく。更に奥の中耳、内耳が
あってようやく耳は聞こえる訳です。

つまり、人の耳が獣耳のごとく、頭のテッペン付近にくる
ということは中耳、内耳のレイアウトも動くわけですよ。
頭蓋骨の中は一体どうなってるんだろう。

お話の設定によっては普通の耳になったり獣耳になったり随意に
状況によって変身する、いや変態か、そいうキャラクターもいます。

そうなるともうね、変化する度に頭蓋骨の中も蠢いているじゃ
ないかと、そんな乱暴に、短時間に変化したら脳味噌が危険
じゃないかと。下手したら記憶障害とか、身体機能にも影響
どころか、死ぬンジャネ?とか思うんですよ。

頭蓋内で血液が溜まるだけでも大事なのに。

もうだめです、そう考えてしまうと、自分の身長以上の長さの
マフラーとかの布を首に巻き付けて垂らしているキャラクターを
見ると、ちょっと派手なアクションをした拍子にマフラーを
どっかに引っかけて首が締まって死にそうで気になってしょうがない
のとか、

頭上にすぐに切れそうな糸でつながれた剣の真下の椅子に座らされ
ている人を見るのと同じ種類の不安を覚える。

気になって仕方がない。どうするべきだろう。

(30代 男性 )

--------------------------------------------------------------------

回答

空想科学読本ばりの揚げ足取りな邪推は物語りを楽しむ上で邪魔な、
無粋なだけです。

もっと違う部分に注目してなるべく考えないようにしましょう。

(30代 男性 )