真を写すことの難しさ。それは何をどう表現するか

 「創作ピンホールカメラとその写真展10」会期を無事終了しました。
ご覧頂いた方、ありがとうございました。あいにく来られなかった方、残念でした。
もう、あの作品を観る機会はおそらくないでしょう。 w

↓最終日の搬出直前の様子など↓








 この今回の展示、写真というアート表現がいかに奥深いかを痛感しました。
「フォトグラフ」の語源が「光で描く」ということらしいですが、まさにそういうものです。
あくまでも写真機、カメラ、フィルム、その他、撮影機材というものは絵画における
画材ですね。

 絵画であれ、写真であれ、立体であれ、空間表現であれ、パフォーマンスであれ、
音楽であれ、映像であれ、いわゆる芸術とかアートとして見なせるものは、やはり、
第一に技術ではなくて、そのテーマ、「何を表したいのか」が大事であって、それを
表現するために技術が必要です。だから、まずそこが決まらなければ、どんなに
技術的に突き詰めても人には何も伝わらないものです。

 しかし、表現ができる技術力、現実に形にする方法が分からなければ、それは
それで人には上手く伝えられないし、単に「稚拙な作品」と理解もされない。
 まあ、中には洞察力の鋭いか、思考というか波長合う方がいるなんてことも無いとは
言えませんが、それは相当に運が良くなければ。通常は あり得ないかと。

 やはり、思いと力、両方がなければ作品なんて成立はしないんです。形には
なっても どこかしら弱い。 薄い。脆い。儚い。

 この間、ちょっとしたイベントに参加しようとして予定より早く、目的地に着いてしまって
たまたま近くにあったチェーン店の古本屋で時間調整をしたのですが、本のタイトル
などは忘れましたが、小学生の描いた絵画などを集めた画集の様な本を見つけて
読んだというか、みたのですが、一つ一つの作品のレベルの高いこと高いこと。
 とても魅力的な作品だらけで、一表現者の自分が圧倒されかけたのですが、
まあ、これは本を作った方の作品をチョイスするセンス、ディレクションの力も大きい
のではないかと。すべての小学生の作品がすごいという話でもなく、選りすぐりの中
から出てきたものだからというものだろうと冷静な判断というか、負け惜しみ。

 まあ、ですから、絵なんてものは小学生でも描こうと思えば描けるんです。むしろ、
感情を惜しみなく表現する分、大人よりよっぽど描けます。

 大の大人が絵を描く、作品を表現する以上、子どもみたく思いつきだけで描き殴っても
そこに何があるのかと。そこに明確なテーマなり目的を持たないと。自己を自由に表現
するのは悪いことではないですが、周りを、他者を観ることは大人としては当然やるもの
ですね。

 作為を込めない純粋無垢さというのも、魅力的ではあるかも知れませんけど、子どもは
 子どもなりに、その弱さを利用する様な したたかさ や、ある種の狡賢さを持ってるもの
ですし、大人の考えることは全て汚い。なんて事もなく、「三つ子の魂百まで」という言葉も
あります。

 ん、なんだか言いたいこととズレてきてますが、まあ、やはり、一角の表現者を気取る、プロ
フェッショナルを自負するのなら、それなりに高い技術、知識、思考が当然求められるもの
なんですよね。

 まあ、写真のプロを目指す訳ではないですが、もう一度、写真という表現に向き合ってみたい
と強く思うのでした。