見ながら絵を描くな。しっかり集中して描け。"Drawing should not seen motif. Draw with tightly focused."

縁起モンの引出物のペインティングの作業に入る前に復習がてら鶴の写真を見て絵を描いておこうと思うも、自己の表現力というボトルネックに直面するというか、

自分の興味のレベルがイマイチ高くないものへの観察眼のなさというか、持続的に観る
という事の難しさを感じる。

資料にした写真は「鳥 Birds」久保敬親という写真家の撮った写真集で、初版が1989年
という古めのものですが、資料としては申し分ないですねえ。

川崎に居たときにアゼリアという駅前地下街でやってたブックバーゲンで入手したん
ですが、まさか具体的に有効利用できるとは当時は思っていなかったなあ。

そうそう、鶴と一言で言っても日本では丹頂鶴のことですよね大概。
英名がJapanese Craneで日本を代表する鳥のひとつなんですねえ。

手本があるということは具体的な目標、ある種のゴールがあるわけで、
その明確な到達点があることによってある種の型にはどうしてもはまって
しまいがちです。

どうしても自分というものはメモリを、RAMをあまり積んでないPC、
もしくはプロセッサのコアが一つしか無いCPUみたいなもので、
 同時に複数の事をこなすのが大変に難題です。 下手にバックグラウンド処理
 しようとするとフリーズするというものです。

ですから、観る時は観る、描く時は描く事に専念するべきですねえ。

分かり切った嘘とかを平気で吐いたりできない人間なもので、どうしても
現物が目の前にあると嘘をつけないというか、自分の認識を疑ってしまって
対象に合わせようとするあまり、自分の得意な方向とは逆の事をしようと
 してしまって無理をしてでも、結果はイマイチという、誰得なのか分からない
事をやってしまいます。

どうも、自分の表現の傾向は、読み取ったイメージをトコトン簡略化して再構築
してシンプルなカタマリ、記号として出力されやすいようです。
パルプ造形ってのは緻密な形態には向いてないのと同じで、だから、自分の表現と
 マッチしていてやりやすいのかもしれません。

そもそもを考えると、具体的なモチーフを設定してパルプで作品を作り始めた
事自体が割と最近の話ですね。

とりあえず手の動くままに、余り意識をせずに、手の感触を頼りに、切れ端を作る。
 その切れ端に更に盛っていって、これは「こんな形の一部だろう」と徐々に形が
 見えてきて、ある程度までいってようやく具体的なイメージになる。
 
そのような手順を踏んでました。

あの頃はなんというか、抽象主義みたいな感じで、具体的なイメージを持つ事を
嫌悪して避けてたぐらいだったような記憶があります。

「何か言いたいけど、聞かないでくれ」みたくとても矛盾した心境だな。

まあ、そういう悶々とネガティブなのも若さというものかも知れません。
 認めたくないものだな、若さ故の過ちというものを。

まあ、ポジティブで活動的な事=若さと考えられがちですが、逆もしかりですよ。
プラスな方向に思い込めるという事は、マイナスな方向にも思い込めます。
徹底的に内に籠るのも若さです。

どちらにせよ、感情がどうにも抑えられないのが若さってやつです。