20151111 そしてウェブログは動き出す…

先日、電車に乗ろうと、走る。

とはいえ、

車内アナウンスで禁じ手と宣言されてる

いわれる「駆け込み乗車」。ではなく、

駆け込み乗車をしないがために、
前もって閉まるドアに駆け込まずに済む様にと
 「プレ駆け込み乗車」を実施していた所、
予想外に背負っていたカバンが跳ねて、
その結果、外ポケットに入っていたスマホが
勢いよく固いタイルの床に着地して衝撃で
 ブックカバー型ケースから飛び出して
数十サンチ㍍ほど滑走…

本体機能に問題なし、着地の仕方にしては
外形の損傷もごく軽微。

しかしなんかもうね、もういいかなと、
もうゴールしても良いよね?と
端末のアップグレードプログラムを
申し込んでやれと。

衝動的というか、半ばドコモじみた、もとい
子供じみた癇癪…。
それが大の大人のすることかよ~

まあ、人間なんてこんなもんです。はい。


決断してはみたものの、
いざ申し込むとなると、色々な仔細が気になりだす。
「もし、この条件がダメだとどうしよう…」

こういうなんというか、全てがうまくいかない前提が
今の自分を造形して、構成しているんだよなと。
やや後ろ向きな自己分析やらセルフ反省会を
始める自分はなんなんだろかな。

まあ、スマホと畳は新しい方がいい。とも
最新機種は嫁を質入れしてでも手に入れろ。
なんて言ったり言わなかったりしますので、

楽しく悩んで祭りのように待ちますかね。

んじゃおやすみー。

20140405 sakura to meziro


 桜の木にメジロを見たような木がして、それを絵にしたら、ネット上で似たような絵を
見てなんだか言い知れないディジャヴュを禁じ得ない‥

 まあ、なんていうの、こういうこともあるよな。ありがちではあるよな‥


 なんだかとても長い間、それでいてなんだかあっという間な感ではありますが、
とりあえずはなんとか生きていました。

 どういう生活をしていようと、いち表現者である自分というのは変えられないし、
変わらないもののようです。

 てなわけで、このブログもまだちょっとだけ続きますよ。

 なんとか税率の変わる直前に、OSのサポートが切れるネットブックから異常な
程に品薄だったsurface pro 2に乗り換えるという、なんとも時代の流れを感じながら
お送りしました。

式年のオリジン ”The origin of Sengu years.”

 何かを続けるということはなかなかに難しいもので、続けているもの、繋がっているもの
をなにかひとつでも持っている人間というのは幸せ、というよりも幸運なのではないかと。

 奇しくも同じような放送時間帯で、愛知と三重の間辺りで、本来ならばカバーしているエリアが
異なる通常は競合しない同系列の放送局の裏番組として、ごく限られた地域ではあるものの、
遷宮の儀式の中継とポケモンの最初のシリーズを忠実にアニメ化した作品が被っている
というのは、自分の穿った目で見るとなんだか共通している部分があるような気、というか
錯覚を覚える次第です。

 まあ、時間とか歴史とか価値観的に同列に語る事にかなりの後ろめたさを感じつつも、
一定の単位の時間、継続して続いている所と、定期的にコンテンツの中核(と呼んで
良いのか語弊があるかも知れない)が新しい入れ物(シリーズ、ソフト、ハードウェア)
に置き換わり、そして世代を超えて人々から親しまれているという点は共通しているかと
思います。

 あ、あとキャラクター(と括って良いのか分からないけども)が多種多様な世界観。
というのは、万物に神が宿り、森羅万象を擬人化するのが大好きなこの国ならでは
なのかもしれません。なんでもかんでも萌え化するのとか。最近の流行で行くと
戦艦とかね。

 まあ、ちょいと話が逸れました。まあ、かといって本題らしい本題がある訳でもない
のですが。ひとまず閑話休題。

 物事が続く、続かないというのはそれなりの理由があるものですが、大本の根幹、
根本の部分でモチベーションを持てる、持てないという差は「信じる」ことができるか
どうかが大きいと、最近の私は常々思うのですが、なかなかどうして、意識的に
「信じる」ようにするのは絶望的な難易度を誇る所業なのです。

 昨今の社会情勢、ただでさえ人間というのはネガティブな情報に過敏に反応する
ようにできていて、テレビ、ネットなどの影響で日々大量の情報に触れると、結果的に
 様々な物事の悪評ばかりが耳やら鼻やら目についてしまう訳で、そういう過敏な
メディアリテラシーが情報というものに対してまるで人体の中のウィルス、細菌、
毒物に対する抗体の様に、アレルギーの如くに過剰反応をして、シャットダウンして
しまって「信じる」事の難易度をスーパーハードモードにしてしまっていると私は
仮定して考えます。
  まあ、要は自律神経を意識的にコントロールするようなもので、制御なんて
できるのか皆目見当つかないですね。ただ、その問題を意識していることで
多少は、気休め程度には緩和できるのではないかとも思う訳です。

 まあ、しかし、赤と緑なのに不思議だね。御三家なのに扱いが…。それ以外は
面白かったのになあ。サカキかっけー。




 などと感想を述べている、残念だけどXYは見送りかなあと思っているkayu9

がお送りしました。

森林公園で中食を、そして猫は笑う"Lunch at Forest Park. And the cat is laughing."

DSC_7488.JPG

 少し前に、外で買ってきた料理を家で食べる事を「中食(なかしょく)」などとテレビ番組
で言っていたんだが、そういうロジックで、家で作った料理を外で食べる。ということも
家と外の中間であるわけであるから、中食と言えなくもないのではないがいかがだろうか?

 というわけで、今、私の中でマイブーム(死語?)なのが、手弁当を持って、外の
どこかの木陰のあるベンチで昼食をとりに、外食する事なのですが、つか、それを
外食と称して良いのか微妙に語弊がありそうですけども。

 そうだな、野外で食べる食事、「野食」というのはどうだろう。まあ、なんだか、音的に
夜中に食べるものみたいだな。 

閑話休題。以下本文。


DSC_7491.JPG
DSC_7491.JPG posted by (C)かゆきゅう

 久々に制作関連の画像を貼ったような気がする。が、いちいちは確認しない方が
精神衛生的にはいいいだろう。前貼った画像が何だったか、そんな昔のことは覚えて
いない。

 涅槃系招き猫シリーズの新しいもの、まあ、新しいとはいえ、形としては去年の10月
辺りにある程度できていたものを若干の手直しを加えて放置していたものを最近、着彩
した。

 やはり、素材の質感と造形という要素があるのだから、ここに更に緻密な描画は要ら
ないという気が、というか、丁寧に塗れば塗る程に、このかたまりの持つ良さが減って
いるような気が最近、うすうすと感じている。

ある種の不気味の谷現象と、言えなくもないのだろか。

 自分に自信を持てない人間というのは誤魔化そうとして素材が活きない厚化粧を
してしまいがち なのかもしれない。

 まあ、なんとか、この感じを残しつつ、完成まで留まることなく迅速に仕上げたいですわ。

いつもの、今日しかない夕焼け。Usual, the sunset there is only today.

  
 この長い長いスランプの出口を探して、右往左往する日々は一体何日目なのだろう。
おそらくは100日単位、もしかしたら1000日単位で続いているかもしれない。
 でも、それでも、そういう日々は今日のような1日がどんどん続いた結果であるわけで。

 しかし、そもそも、自分はいつもスランプのような状態だった気がする。スランプこそが
通常運転であり、そうでない状態の方が特別な状態だったのではないかと疑心暗鬼にも
なる。 自分が信じられなくなる、つまりは自信をなくす。

 悩みってのはとことん集中的に悩んでいるとパッと答えのでるものと、考えれば考える
ほどにドツボにはまる、まさに、下手な考え休むに劣る、みたいな二種類がある。

 まあ、前述のような悩みがどっちであるかは、あえてここで明言しなくとも おかわり、
いや、おわかりだろう。

 てなわけで、こんな益体のない、つらつらとつれづれな考えとは呼べない曖昧模糊と
した思い、というかストレッサーを一旦切り離して、とりあえず放り投げ、匙を投げて
脱兎のごとく迅速に逃避行すべきなのだろう。 有名な古い中国の兵法書にあるという
究極的に最終な手段である。

 まあ、そういうスタンスで、少し前の自分を省みて反省するに、やっぱり、そういう迷いが
無意識的に、どうにも誤魔化しようもない位にそういうきらいを、作っていた作品から
ゆんゆん放射されているのを、痛々しく感じ取ってしまうもので。

 また、そういうデフレスパから逃げるべく、頑張っていこうよ、自分。

はえのおう ハイズル "The fly which got damaged creeps the ground. "

 森林の様に木々が茂る、ネーミングもほぼそのまんまな公園の芝生の隅の木立の木陰の
ベンチで弁当を食べていると、左足の甲に虫が這ったような感覚が。いわゆる蟻走感というものだったか。

  視線を足下に向けた瞬間、小さいながらもでっぷりと太ったフォルムで二枚の羽の生やして、
憎たらしい複眼をこっちに向け足にしがみついている。空いている左右の前足どうしをごまをするかのように顔の前でスリスリとしている。

 もちろん蟻ではない。ここでは仮にFさんとしておこう。なんとなく。

 その瞬間に猫が足に付いた異物を振り払うかの如く、細かく足を振り、Fさんを払ったのだが、次の瞬間、想像していたのとは違う事が起きた。

 てっきり不快な羽音で、私の無意識に設定している領空内数十センチをジグザグに飛び回り、
不規則に領空侵犯を繰り返す。
 …かと思えば、揺さぶられた勢いにさして抵抗することなく、あっけなく草の地面にずんぐりと
した芋がぽてっと落ちるかのようにFさんは背中から落ちた。

 どうやら衰弱したか、怪我でもして飛べなくなり、そこいらを這いずっていると、たまたま私の足に乗り上げただけのようだ。

 普段、元気でピンピンしている状態であれば近寄れば、瞬時に殺意をむき出しにして、手頃な
殺傷器具さえあればただちに撃滅するような、親の敵か何かと同等のように敵愾心を向ける対象ではあるが、この状況下では、なんだか「もののあはれ」を感じて、「まあ、がんばって生きろや」と内心思ってしまうのは人間の性というものであるようだ。

 結局のところ、様々な事、人、物の善悪、正邪というのは状況に応じて移ろってゆくもので、絶対ではない。一時的な気の迷いなどとか瞬間の高揚感でしかない。それにのっかっるのはいつの時でも危険な事ではある。でもまあ、それは必ずしも悪い訳でもない。

 状況にのまれすぎない冷静さと、状況にすぐ混ざり込めるノリの良さというのはなかなか両立しがたいものではあるけれども。

 まあ、ともあれ、Fさんがその後どうなったのかは知る由もない。しばらくは若干伸びすぎた芝生
やせいぜい数センチの低い草をカタパルトのようにして飛び立とうとして落ちてを切り返していた
けれでも。いや、けれども。
 だけれども、彼、いや、もしくは彼女なのか、Fさんはこの広大な地球、世界においては重要な
意味など持ってはいないのだろう。でも私にとっては幾ばくかの意義を提示してくれたのだと
思ってしまう。

 なんだか、某ロックバンドの「超新星爆発」な歌のアイデアの基となった、命の尊さを教えて
くれた蟷螂みたいですなあ。

 ま、宇宙規模で考えたら人間と虫も同じようなものかもしれないですけど。

 それは「一寸の虫にも五分の魂」な話ですが、たしか本来の言われ方だと「ちっぽけな虫と
人間であっても等しく尊い」といった意味ですから逆説的な感じで、「どっちも無意味で
大差ない」という事になってますが。

  まあ、だから、価値も無価値も本質的には変わらないのかも知れません。ゼロベースで
世の中を見ればすべてにものは並列であってフラットです。

 そこに執着やら、欲望を含んで捉えてこそ意味があって価値がある訳です。それが生きる
という事、「生者の考え」なんでしょう。

  逆に全てを無意味、等価値と捉えるのは「死者の考え」といえるかも知れません。
まあ、死んだ人間が物事を考えられるのかというのは答えの出そうにない疑問ですが。

雨上がりとアゲハのブルース-Bruce of Swallowtail in after the rain-

 雨上がり、ベランダに出た瞬間に、蝶が羽ばたいた。

 サッシの下部分というとても不可解な場所で数日前に蛹化したアゲハの幼虫が
無事に羽化していたようだ。


 虫の幼虫が蛹になり、そして成虫になる。一見というか一聞、とても、至極、当たり前で
当然な話ではある。

 しかし、かの蝶々が成虫になるまでの過程を、経過を知っている身からすると、それは
とても、一片の狂いのない、確実に起こりうる事なのだとは到底思えない。

 ベランダには小さいながらも柑橘類、おそらくはオレンジの木、とは呼べないような
株というか苗が植木鉢に植わっている。 さほど大きくはない。しかし、そんなオレンジに
 毎シーズン、アゲハが卵を産み付ける。よくもまあこんな辺鄙な所にある柑橘類の
植物を発見できるものだと呆れるのだが、その生み付けられる卵の数は明らかに
多すぎる。

 せいぜい数匹ぐらいが成虫になれるかどうかも分からない程度の葉っぱしか
茂っていない。成長途中で確実に食い尽くしてしまう。確実に。

 そもそもアゲハを育てる為に植えているオレンジではないので、当然に卵や幼虫を
発見次第に排除しているのだが、たまたま自分が気まぐれを起こす、もしくは根気負け
して見逃したりもする。しかし、それでもベランダには何らかの捕食者が現れるようで、
気がつくと 幼虫がいなくなる事がある。

 たまたまいなくなったと思った一個体がサッシの下部で蛹になっていた。その一匹だけ
が成虫になった。本当にたまたま。確率としては10パーセントあるかも分からない。

 こういう淘汰というのはいわゆる自然であるならば当然。たまたま自分が
そこに介入していたから一匹だけ残ったとも言える。

 まあ、この件から思い知るのは、自然において、世間においては当然、絶対なんて
ものはあり得ないという事か。

  人間が当たり前だと思っている事なんて実に不確かで曖昧模糊としている。
しかし、そんな酷い有様の世界である程度の正気を保って生きるには不確かな
ものを絶対に揺るがない確かなものとして信じられなければ難しい。

  知らなければ、気がつかなければ何も気に留めずにいられるのだろうけど、
それを知ってしまった人間はどうすればいいのだろう。

 世の中、そういう人間で溢れかえっているような。 年間自殺者数とか見ると
そう思ってしまう。交通事故で死ぬよりも自殺する方が多いとか、悪い
冗談だな。だったらいいのに。

 っと、妙な方向に思考しがちで、例外的なアクシデントに見舞われる事が
多い自分は、そう救いのない方へ考えてしまいがちではある。

 まあ、世の中、理屈だけでは救われないものです。人が生きるには
夢や理想や、キャッチーな言葉、妄想とか思い込みとか、甘ったれた願望、
微笑ましい嘘とか、心を躍らせてくれる唄とか、二次元とか、脳内設定や、
フィクションやら偶像やらアイドルやらカリスマ、神様とか宗教とかが必要なの
です 。

あ、あとお金も。

 まあ、お金自体も、国という権威を信用して成り立つ、割と不安定なもの
ですけどね。

 と、話がぐるぐると無限軌道のごとくにループしてくる感じなのでここまで。