例え、独りぼっちであってもチームワークは必要である。"For example, teamwork is essential, even alone."

うーん、絵の描き方が、まず写真をどれ使うのかから始めると、シュチュエーション
コメディみたいなストーリーの組み方みたいな。というか、舞台から発想して
いく感じ。

場があって、そこに人が集まる。みたいな。

この絵のの元ネタの写真は2002年の4月に春日井市の落合公園で撮ったものです。

地元の人間なら知っている花見の名所ですね。

ただ、この近辺のロールのフォルダを見ても、さくらの咲いているいわゆる
ベタな絵が少ないですね。今の私なら、平気で5〜60枚は撮ってるとこですが。
まあ、メモリー、バッテリーの容量の都合というのもあるでしょう。
しかし、写真から積極性を感じない。
まあ、写真は撮れば撮るほど、上達し、積極的になるものですねえ。

変に拘ってて、妙に構えてるし、消極的だなあ。

で、これ、まず最初に卒業した大学のクラスメート数人が集まって
花見でバーベキューをした後日に、出直して撮っているんですよね。

まあ、グループでいると団体行動を重んじて、単独行動をしない彼は
なんか、写真を撮りたかったけど、周りに遠慮して、撮らなかったん
だろうなあと。

で、後日、わざわざ、サイクリングも兼ねて尾張旭から走ってきてるんですから
なんかエネルギーの使い方がおかしいな。さすが20代。

何か迷って、モヤモヤして、ネガティブなんだけど、妙な事をしだすと有り余る
体力で突っ走ってんなあ。

なんだか壊れかけの電化製品みたいだな。

まあ、そう思うと、若いのは若いなりに大変だったよなあと。
 感情を全然制御できなくてブン回されてたなあ。

それを思うと、ある程度ハンドリングできている今の自分は バランス的には
悪くないなと。

ちょっとは冷静に物事を見られるようにはなったつもりです。
が、まだまだ、思考力が足りてないし、行動力も不足しております。

まあ、こうやって、自分の撮った過去写真は日記を読み返すよりも客観的に
昔の自分を見る事ができますね。

写真ってのは撮る人間の視点が反映されますが、写したものにはその視点、
意図とを越えたものも一緒に写るものですから自分の思っていた事と現実がどう
いう関係だったのかを今の視点で推量で来ます。

日記というのは自分の感情を並べてしまいますので、事実はどうだったのか
その証拠を確認しづらいのではないかと思います。

 それに、過去の自分の精神の荒廃ぶりはさすがに直視したくないなと。
過去のラクガキを見るのでも、ちょっとした恐怖を伴ったものを、
 それを文章なんてもので見たらまた発狂しそうですよ。

 まあ、今が今とて正常でまともなのかとは限りませんけど。

 基本的に、過去の自分と今の自分、未来の自分はすべて別物ですよね。

人間て一日ごとに別人が入れ替わってるような気がします。

もっと短いスパンの可能性もありますが。




起きて寝るまでがその日の人格が生きている時間。

寝て起きるまでに新しい自分が昨日までの記憶を引き継いで新しい
自分がまた一日を始める。

でないと、昨日まで満足していた事が今日になって不満に思えたり、
妙に落ち込んでいた自分が馬鹿に思えたりってなんだかおかしな気がします。

別人なのであれば何となく納得できる様な。

まあ、一日一日、一人しかいないその日の自分を大事につないで行ってこそ、
その先には輝かしい日や、素晴らしい景色が見えてくるのではないでしょうか。

 そのすべては一人で作るんじゃなくて、その日、その日の代わりの居ない、
 休む事が出来ない自分が請け負うものでないかと。

 だれが抜けても、自分という人生は完結しません。

 せっかく過去の自分達が積み上げたものを一人の自分がぶち壊すなんては、
 本来やってはいけない。過去の自分達の思いを汲んで、例えその日が辛くても、
 悲しくても、下らなく見えても諦めてはいかんのではないかと思います。

今日の自分という存在が居ると言う事は、過去の自分達が引き継いできて
くれたからで、一人孤独に進んできた訳じゃない。自分だけであっても一人
ではない。

いろんな艱難辛苦を共にしてきた自分という人生の仲間なんです。


ま、こうやって一つのものを複数として、複数のものを一つのものとして
捉えてみると、違った景色が見えてきて面白いですね。

こうやって、視線を自由に動かせるか否かって、人生が辛いか否かに関わります。

さて、今日の自分は自分としての役割りを自分なりに果たせたのかな。
次の日の自分に良い状態でバトンを渡せたんだろうか。

まあ、それはもう、また、別の自分の話ですね。