当たるも当たらぬもどちらも等しい

 

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ライブマーケット一日目終了。

 

本日はお日柄も良く、恵みの雨が時折、激しく降ったり病んだり、いや止んだり。

 

来場してこちらにアクセスしてくださった方がいらっしゃいましたら、ありがとう

ございます。

 

まあ、このブログはご存じのごとく、ではないかもしれませんが、多分に、

ある種、「痛い」要素を含んでおります。が、あまり気にせずに、スルーして

生あたかく見守って頂ければ幸いです。

 

本日、初めて、当たらぬも八卦な事柄を扱うその道のプロの方お話を聞いたのですが

実に興味深い。です。

 

世の中には講談師という職業があるそうですが、そういった方々は実際には

見ても居ないことを、さも見てきたかのような風に話されるそうですね。

 

それに近似値なのかもしれません。どちらも同列に扱うのは失礼かもしれません。

どっちに対してなのかは存じませんが。

 

いや、痛いところに手が届くというか。心当たりが有りすぎて、在りすぎて、

もうね。ある種の言葉の手品には大多数の人に当てはまるような事を

指摘して、さも、対象者を見透かすような錯覚を起こさせるそうですが、

そんなレベルじゃありません。と思いました。多分。

 

自分自身がうすうす、「こうすべきではないのか」と思っていた所を指摘され

てもう、やたらと頷いてるのみでした。

 

端的に言ってしまえば「アピールが足りない」に尽きます。

 

たかが、占いなのですが、それをどのように使うのかは当人の自由です。

 

根拠なんてないのかもしれない。でも根拠とはなんぞや?

 

なにかで成功するには実力がなくてはいけないかもしれない。

しかし、それは絶対条件とは限らない。時に、残酷にも、多分に

運の良さが雌雄を決してしまう事はあるようです。

 

今、読みかけの本があって、とある有名な武将の有名な合戦である

「桶狭間の戦い」はドラマチックな奇襲作戦ではなかったらしいという説が

あるそうで。

 

ある勝敗が決した時、人間というのは勝った原因、負けた原因を分析、推量して

しまうものだそうで。

その勝ちが劇的であればあるほど、その勝因を探してしまいたくなる。

 

しかし、それは単にたまたま相手陣営に不測の事態、天災に見舞われ、その結果

ろくに戦力を発揮できずに、戦力差が格段に下の相手に負けるのなんてのは決して

あり得ない事ではない。

 

しかし、そういう類の幸運を、可能性の低い幸運を呼び込むには最善を尽くして

いなければその確率は限りなくゼロに近い。諦めた時点で試合は終了です。

 

諦めないで最善を尽くすにはどうすれば良いのか。どうすべきなのだろう。

 

何かを疑っていてはその原動力たり得ない。

血路を開くには何かを強固に信じなければと力になり得ない。

 

疑うことは回避する事、逃げる際には有効に作用するのかもしれない。

信じることは向かい合うと覚悟を決めるということなのかもしれない。

その迷いのない攻撃の威力は計り知れない。

 

その一撃のための一助としての占いは比較的、リスクは、代償は

易いかと思います。

 

例えるのなら、

 

自分が役者だとする。与えられた役になりきるのに台本を読んで、

その台詞の語間を読み、この役、このキャラクターはきっとこうなんだ

と想像してその役になりきる事。その「語間」に当たるのが占いかもしれない。

 

かもしれない。多分。

 

まあ、私の直感も当たらぬも八卦のようなものかもしんないですけど。

 

ともかく、今年か来年出会うという「運命の人」とはどんなんだろうねえ。

 

自由を愛する「木」な人間がお送りいたしました。

 

もう、こんな時間なのに眠くないのはレッドブルのおかげ、というより

レッドブルのせいなのかもしれない。