「無駄」と向き合って、「無意味」を越えた先に見えるもの。

本日のパルプ造形の盛り作業をYouTubeにアップしました。
一部動画にはBGMを仕込んでいますので、音が出ます。ご注意下さい。


こういうメイキング動画にどれほどの需要があって、観たいと思う方が
いるのかどうかもよく分かりませんけども、一、作家、一アーティストは
制作物、制作の作業もワークショップ、ある種の時間芸術、作品とも言える
ものなので、試験的、実験的にやってみる事も立派な制作活動、アート活動
ではないのかと考えるものでもあります。



そもそも、資源のリサイクルというものは、一定の割合で、大きな矛盾を
抱えているものです。リサイクルする事によって生じるエネルギーコスト、
再生のために消費する資源を、出来上がる再生素材の品質、
生産コストを鑑みると、それに意味があるのか分からない。という問題を
孕むものです。



端的に言えば無駄。下手をすれば、ただの時間とエネルギーの浪費とも
言えなくもありません。

しかし、極論を言ってしまえば、人が生きる意味とは何でしょうか。
みんな生まれてたら死ぬだけです。いずれ無くなります。全てのものは
永遠ではありません。絶えず変化し続ける。それが生きると言う事です。

そんな、一見、冷え切った頭で考えれば無駄でしかない、生きると
言う事に何かしらの意味を見いだす事に意味がある。

人が無駄だとしか思えない事を突き詰めた先には、誰も知らなかった
意味が眠っているものではないでしょうか。

しかし、無駄だと思える事、確実性の無い事を続けるというのは、なかなか
どうしても難しい。

端的に言ってしまえばとても、とても、とても、不安です。怖いです。

それでもそんな事を続けるのは、ただの勘、曖昧な予感めいた、
「これには何か意味がある」という、なんとも非論理的なものであったり
します。




無駄は、無駄だと思った瞬間に無駄であり、ゴミはそれがゴミだと
認識したときに発生するものです。

ただ単に「リサイクル素材」という言葉が持っている「エコで何か良さそう」という
イメージに乗っかるような詐欺みたいな事はしたくない。

そういう思いを根幹に据えて、パルプを依り代にした制作を続けて行きます。