主人公に科せられた真の使命。-The real mission of the hero-

桜がボチボチ咲き始めて、駅の窓口の定期券の購入手続きの列を見て。
春ですねえ。
ちょっと桜紅茶で、風流を気取ってみたりしてます。

作風を弄ったというか、ちょっと描き方を変えてみました。
ペンタブで、いい線を引こうとする余り、意識が妙に偏り過ぎて、
他に留意すべき点をおきっぱにしてたかなあと。
ブラシはいくつも種類があるのに、ベーシックなものしか使ってないし、
地の部分は単にペンキツールで基本ベタ塗り。

質感というか、テクスチャーて大事じゃないかなあと。

それに、キレイな線というのは自分の柄じゃないなあと。どっちかというと、
味のある線だよなあと。

まあ、割と成功している気がする。まあ、基礎力ないのを誤魔化してると
いえば誤魔化しだけど。

さて、話は変わりますが、

小学校の事を英語でプライマリースクールとかエレメンタリースクールって言うのって
なんかいいよね。

すんごい大事な事を、基礎の基礎を学ぶって感じがあるよね。

どうしても小学校レベルと言うと、低レベルでしょうもない事と受け止められて
しまいがちですけど、全ての学力の、理解力の基礎となる部分、核となる部分
ですから、ココを疎かにしたら、真っ当な学力は期待できませんよね。

モノを作るにおいても作り手の根本部分に核となるモチベーション、こうしたいという
強い思いがないと良いものは作れませんよね。

作品を作る上での最初の一歩。

「何をつくるか」「何を描くか」「何を表現したいか」

具体的なイメージが湧かないと作品はどうにも曖昧模糊としてああでもない
こうでもないをひたすら繰り返して、完成までの道のりがいつまで経っても
見えてこない。そして未完成。

分からないものを分からないなりに作るというプロセスもアリと言えば
アリですが、それをやると、とてつもなく時間がかかり、人生かけても終らない。
気力が、興味が尽きて頓挫というケースも良くあります。

何だろう、いわゆる「自分探し」と似ているかもしれませんね。

思いが、鮮明で、イメージがしっかりとしていると作品を完成させるのにさほど時間を
要しません。 目指す答えが、大体の方向が分かっていればそれに向かって進むだけです。

まあ、しかし、イメージが鮮明なのは良いですけど、そのイメージが誰かの借り物で
あったりするのはあまり頂けないですね。

いわゆる二次創作。 酷くなるとただの劣化コピー。盗作。

でも、モノを作るにおいて、摸倣とか真似は絶対的に必要不可欠ですよね。
ただ、個人的な楽しみであるならばそれは何をしようと自由です。

しかし、ひとかどの専門家として立つ為には自分なりの個性ってものがないと
なかなか難しいですよね。

まあ、しかし、その辺りのバランスというのは非常にナイーブというか、ハードな
もので、あまりにもオリジナリティが高すぎて、斬新すぎて、奇を衒い過ぎて
しまいますと、誰にも見向きもされない。というのが世の常です。

まあ、クリエイターも客商売ですので、ちょっとはお客さんの事を、いや、
出来うる限りはお客さんの事も考えないといけません。観る側の立場の
視点を忘れてはいけません。

小説でも、ドラマでも、アニメでも、あと絵本とかでも、
「ものがたり」というものは観てくれる人がいなければ存在していないのと
同じです。

人が脳内上にエミュレートした仮想の人格が、世界が織りなすものですから、
その存在を支える観客がいないと成立しません。

その不可欠な人を物語に呼び込む為に、ありがちな、決まりきった設定。
 お約束、というものがあります。

分かりやすさって、取っつきやすさって重要です。

映画ネバーエンディングストーリーの主人公のひとり、 アトレーユ。
何故に彼が、彼こそが選ばれて、過酷な冒険に出なければければならないのか
という理由です。

物語を読んでいるバスチャンが投影しやすい、感情移入できるキャラクターで
なければ、のめり込んで読んでくれなければ物語は進みません。途中で終って
しまいます。

文字通り、物語の中に読者であるバスチヤンを連れて来る事こそが本当の使命
なんですよね。

まあ、バスチャンもその為の主人公であったりしますけども。

どういう物語であれ、主人公の役割りというのは大抵そういうモノでないかと。

まあ、ですから、多くの場合、巨大な人型兵器に乗って操縦するのは少年であったり、
摩訶不思議な力で変身して街の平和を守るのは少女じゃないといけない訳ですね。

老人の気持ちが分かるのは基本的に老人だけです。少年の気持ちが分かるのは少年と、
少年時代を経験した事のある大人である訳です。

誰に向けて物語を作るかによって主人公ってのは決まります。

ですから、水戸黄門を観てるのは大概、じいちゃんですし、
渡る世間は鬼ばかりを観てるのは大抵はおばちゃんです。

まあ、お約束というのはスポーツのルールみたいなもので、それを
逸脱し過ぎると反則な訳で、読者の物語への集中を阻害し、反感を
持つものなのでは。

まあ、ただ全てお約束というルールに則ってしまいますと、非常に
陳腐というか、予定調和すぎて詰まらない。というジレンマが起きますよね。
正直で真面目すぎても詰まらないものです。人も物語も。
しあわせ過ぎてもあくびが出るし、不幸過ぎても鬱になる。人生もドラマも。

まあ、適度な「くずし」は必要ですね。
どこをどう、くずすかって個性が出ますよね。オリジナリティですね。