人は、何かを捨てるには、相応の対価が必要である。Humankind discard anything without first giving something.

リスタートをかけるべく、部屋を片付けようと。今週末。

時間をかけた割に、片付いていない現状がそこにある。

ものを無差別に捨てる事が出来れば、片付けるのには大して手間は無い。

分別、分類をするから、いるもの、いらないものを仕分けするから時間がかかる。

簡単に捨てられるものは最初から持っていない。ある種の価値、持っていたい理由が
 あるはず。もしくは、あったはず。

「捨てられない」の究極形は「ゴミ屋敷」となる訳ですが、そういった状況に
 陥る人間ってのは、精神的に大きな問題を抱えているのが大半なのではないで
しょうか。

 つまりは、部屋を片付けるには新しい価値観、メンタリティーを得たり、ある種の
パラダイムシフトが起きないと完遂しない訳です。

そういった類いの自己変革ちゅうのは、捨てるものの代わりを、精神的な新しい
拠り所手に入れない限り、対価を得ない限り、不可能です。

でなければ、既存の物質を手放す事はできません。

中途半端な姿勢で、生半可な、邪な心持ちで部屋を再構築しようとすると、
それを実行する以前よりも酷い惨状が目前に広がる結果となるわけです。


人は無くす事で得る事ができる。得る事で何かを失い。得た自分はそれ以前の
自分とはイコールではなくて、失った自分も、失っていない自分もイコールでない。

何の話だったか、視力を失った人間は聴力が発達する。という様に、人間てのは
失ったものを補完するように出来ているらしいですねえ。

ならば、精神的な意味の上でも、失う事で、失敗して得る事。得る事、成功する事で
失う事は往往にして 起こるもの、極極、自然な成り行きなのでしょう。

そう考えると人の生涯の全てというのは等価交換なのかもしれないですねえ。
ただ、それを実感として理解していなければ常に失っているようにしか
感じないのでしょう。

まあ、そう考えられるのなら、この丸二日、何もない空間というものに価値を
見出しつつ、それに向けて努力しつつ、他にもやりたい事は多々あったものの
それを出来なかった無念と、努力した割に想定した無な空間を作れなかった自己に
対する無力感。それに、失った物理的な時間の対価として、こう考えるに至れた、
こういう発想に気が付けたのは、十分に割の合う等価交換なのかもしれません。

何というか、人生、常にプラマイゼロなのだと思えば、肩の荷が下りたというか
ちょっこし楽に 、楽しくなって来た気がします。

常に失う事なんて何一つないんですから。というより、常に均衡は保たれる訳ですから。

ただ、なりたい形に自分を組み替えて行くのみなんでしょう。