雨上がりとアゲハのブルース-Bruce of Swallowtail in after the rain-

 雨上がり、ベランダに出た瞬間に、蝶が羽ばたいた。

 サッシの下部分というとても不可解な場所で数日前に蛹化したアゲハの幼虫が
無事に羽化していたようだ。


 虫の幼虫が蛹になり、そして成虫になる。一見というか一聞、とても、至極、当たり前で
当然な話ではある。

 しかし、かの蝶々が成虫になるまでの過程を、経過を知っている身からすると、それは
とても、一片の狂いのない、確実に起こりうる事なのだとは到底思えない。

 ベランダには小さいながらも柑橘類、おそらくはオレンジの木、とは呼べないような
株というか苗が植木鉢に植わっている。 さほど大きくはない。しかし、そんなオレンジに
 毎シーズン、アゲハが卵を産み付ける。よくもまあこんな辺鄙な所にある柑橘類の
植物を発見できるものだと呆れるのだが、その生み付けられる卵の数は明らかに
多すぎる。

 せいぜい数匹ぐらいが成虫になれるかどうかも分からない程度の葉っぱしか
茂っていない。成長途中で確実に食い尽くしてしまう。確実に。

 そもそもアゲハを育てる為に植えているオレンジではないので、当然に卵や幼虫を
発見次第に排除しているのだが、たまたま自分が気まぐれを起こす、もしくは根気負け
して見逃したりもする。しかし、それでもベランダには何らかの捕食者が現れるようで、
気がつくと 幼虫がいなくなる事がある。

 たまたまいなくなったと思った一個体がサッシの下部で蛹になっていた。その一匹だけ
が成虫になった。本当にたまたま。確率としては10パーセントあるかも分からない。

 こういう淘汰というのはいわゆる自然であるならば当然。たまたま自分が
そこに介入していたから一匹だけ残ったとも言える。

 まあ、この件から思い知るのは、自然において、世間においては当然、絶対なんて
ものはあり得ないという事か。

  人間が当たり前だと思っている事なんて実に不確かで曖昧模糊としている。
しかし、そんな酷い有様の世界である程度の正気を保って生きるには不確かな
ものを絶対に揺るがない確かなものとして信じられなければ難しい。

  知らなければ、気がつかなければ何も気に留めずにいられるのだろうけど、
それを知ってしまった人間はどうすればいいのだろう。

 世の中、そういう人間で溢れかえっているような。 年間自殺者数とか見ると
そう思ってしまう。交通事故で死ぬよりも自殺する方が多いとか、悪い
冗談だな。だったらいいのに。

 っと、妙な方向に思考しがちで、例外的なアクシデントに見舞われる事が
多い自分は、そう救いのない方へ考えてしまいがちではある。

 まあ、世の中、理屈だけでは救われないものです。人が生きるには
夢や理想や、キャッチーな言葉、妄想とか思い込みとか、甘ったれた願望、
微笑ましい嘘とか、心を躍らせてくれる唄とか、二次元とか、脳内設定や、
フィクションやら偶像やらアイドルやらカリスマ、神様とか宗教とかが必要なの
です 。

あ、あとお金も。

 まあ、お金自体も、国という権威を信用して成り立つ、割と不安定なもの
ですけどね。

 と、話がぐるぐると無限軌道のごとくにループしてくる感じなのでここまで。

真を写すことの難しさ。それは何をどう表現するか

 「創作ピンホールカメラとその写真展10」会期を無事終了しました。
ご覧頂いた方、ありがとうございました。あいにく来られなかった方、残念でした。
もう、あの作品を観る機会はおそらくないでしょう。 w

↓最終日の搬出直前の様子など↓








 この今回の展示、写真というアート表現がいかに奥深いかを痛感しました。
「フォトグラフ」の語源が「光で描く」ということらしいですが、まさにそういうものです。
あくまでも写真機、カメラ、フィルム、その他、撮影機材というものは絵画における
画材ですね。

 絵画であれ、写真であれ、立体であれ、空間表現であれ、パフォーマンスであれ、
音楽であれ、映像であれ、いわゆる芸術とかアートとして見なせるものは、やはり、
第一に技術ではなくて、そのテーマ、「何を表したいのか」が大事であって、それを
表現するために技術が必要です。だから、まずそこが決まらなければ、どんなに
技術的に突き詰めても人には何も伝わらないものです。

 しかし、表現ができる技術力、現実に形にする方法が分からなければ、それは
それで人には上手く伝えられないし、単に「稚拙な作品」と理解もされない。
 まあ、中には洞察力の鋭いか、思考というか波長合う方がいるなんてことも無いとは
言えませんが、それは相当に運が良くなければ。通常は あり得ないかと。

 やはり、思いと力、両方がなければ作品なんて成立はしないんです。形には
なっても どこかしら弱い。 薄い。脆い。儚い。

 この間、ちょっとしたイベントに参加しようとして予定より早く、目的地に着いてしまって
たまたま近くにあったチェーン店の古本屋で時間調整をしたのですが、本のタイトル
などは忘れましたが、小学生の描いた絵画などを集めた画集の様な本を見つけて
読んだというか、みたのですが、一つ一つの作品のレベルの高いこと高いこと。
 とても魅力的な作品だらけで、一表現者の自分が圧倒されかけたのですが、
まあ、これは本を作った方の作品をチョイスするセンス、ディレクションの力も大きい
のではないかと。すべての小学生の作品がすごいという話でもなく、選りすぐりの中
から出てきたものだからというものだろうと冷静な判断というか、負け惜しみ。

 まあ、ですから、絵なんてものは小学生でも描こうと思えば描けるんです。むしろ、
感情を惜しみなく表現する分、大人よりよっぽど描けます。

 大の大人が絵を描く、作品を表現する以上、子どもみたく思いつきだけで描き殴っても
そこに何があるのかと。そこに明確なテーマなり目的を持たないと。自己を自由に表現
するのは悪いことではないですが、周りを、他者を観ることは大人としては当然やるもの
ですね。

 作為を込めない純粋無垢さというのも、魅力的ではあるかも知れませんけど、子どもは
 子どもなりに、その弱さを利用する様な したたかさ や、ある種の狡賢さを持ってるもの
ですし、大人の考えることは全て汚い。なんて事もなく、「三つ子の魂百まで」という言葉も
あります。

 ん、なんだか言いたいこととズレてきてますが、まあ、やはり、一角の表現者を気取る、プロ
フェッショナルを自負するのなら、それなりに高い技術、知識、思考が当然求められるもの
なんですよね。

 まあ、写真のプロを目指す訳ではないですが、もう一度、写真という表現に向き合ってみたい
と強く思うのでした。

オープニングの会場から光の巨人の話まで


 ピンホールカメラ展、初日はあいにくの空模様、お足下のコンディションが
万全ではない中でも多くの方がご覧になったようです。ありがとうございます。

 オープニングパーティも楽しかったです。

 パーティ中に高浜の美術館で催される、「ウルトラマン 創世記展」の招待券を
とある方から頂いたのですが、そこでちょっとした雑談に。

 ウルトラマン、しかも初代ともなるとリアルにテレビ放映していたのは高度
経済成長期で、もう随分と昔の事になります。よって若い世代にとっては馴染み
はあまりないのですが、直接には関わりなくても、その影響を受けた映像作品
などの、いわゆるサブカルへの影響は大きいですよね。最近に限っても、
巨大な人型決戦兵器が終末的な世界で人知を越えた驚異的な存在と戦う話とか、
中世ヨーロッパみたいな城塞都市を舞台に人間を食う巨人達に人間の兵団が特殊な
立体的に機動できる装備などで立ち向かったり、果ては自ら巨人になって戦う話が
ありますし。

 もはや、サブだどうの言うまでもなくカルチャーであり、文化ですね。まあ、
だから美術館でも展示をする訳ですし。 色んな作品のベースになっている古典とも
呼べるものです。こういった展示を観るのも単に映像をみるのとはまた違った角度で
みるのも面白いかと。

 まあ、あとは余談ではありますが、どんな人気のシリーズものでも初代という
ものの知名度は揺るがぬほどに強いのですが、シリーズが続いたりしていくと、
最近の事情は良く知らない。最近の◯◯は◯◯じゃない。など、現在進行形で
ハマってる人間の数は限られてくるものですね。

 瞬間的に「好きだ」とか「マジ面白い」と思う人間は多くても、そういう興味、
気持ちを長く持ち続けられるのは限られる。しかし、そこまで持ち続けられたら
それはその人だけの財産と呼べるものかも知れません。
 まあ、その財産の為に それ相応に散財をしてしまうものですけどね。

 でも、好きなものを好きでいられる。それは間違いなく、しあわせと呼べる
ものです。

 そう考えると自分は不幸とまでは言えなくとも、薄幸と言わざるを得ないかも
しれません。熱し易く冷め易いというか、結構疑り深い質なもので、ふと自分が
抱いている気持ちを信じられなくなる事がよくあります。 信じる事は大事です。
それが嘘とか本当なのかを抜きにしても。

 ま、焼け木杭に火がつく。という言葉もありますから、なろうと思えばなれる
のかもしれないです。しあわせ というのは。

 しあわせは歩いてこない、だから、自分で作るんだ。

それらしいオチが出たとこでお開きです。

【告知】創作ピンホールカメラとその写真展10


 本日、7月3日の水曜日から8日の月曜日まで、名古屋栄のナディアパークの
デザインギャラリーで「創作ピンホールカメラとその写真展10」が開催されます。

 通算て三回目の参加で、今回はピンホールカメラではポピュラーな印画紙を
フィルムに、いや、ネガに用いて自分個人としては割と基本に忠実な仕様で制作
しています。

 相変わらず 私の他の出展者の方々はカメラ、写真のクオリティの高い作品を
持ってきますので、その中で埋没しないように「カメラとしてのギリギリ最低限
の性能を有し、直感を駆使してアバウトなカメラ、写真を作る」という根本は
シンプル、 スタイルはゴテゴテというなんとも二律背反なテイストを目指して
作りました。

 ピンホールカメラは箱に極小さな穴(ピンホール)を開けただけの箱という
 超簡単でシンプルな仕組みのものですし、お手軽、お気軽さは抜いてはいけない
重要な要素な気がどうしてもしますし。極力いい加減で行き当たりばったりな
仕事でも 間違いではないんじゃないかと。

 今回、その方向性で、自室にやっつけの突貫で暗室のようなものを設営して
印画紙を現像、プリントしました。 たまたまあった黒っぽい色の布で窓を覆う
ものの、日中では完全とはほど遠い遮光性しかないので日没後なら誤魔化せないか
と実験を試みてテスト、というよりは山勘の出たとこ勝負で問題なく作業できました。
 
 印画紙を暗室で扱う際には通常は赤色の灯り セーフライトで作業する為の明るさを
確保する訳ですが、そのような専門機材はないですから、また、ピンホールカメラの
為に用意するのも不本意なので、自転車で使うようなクリプトン球のマグライトの
先端部分に、すべての商品がだいたい105円くらいのお店でも取り扱ってるような
赤のカラーセロハンを、ネットの情報だと3枚重ねの所を6枚重ねに被せたライト
で直に当てて使うのではなく一旦、壁に当てて、いわゆる間接照明として使って
みました。セミセーフライトとでも呼んでみましょうか。

 ピンホールカメラに限らず、アナログなカメラは基本的に撮影したものはネガ、
つまり上下左右、明るい部分の光、暗い部分の影、カラーの場合は色も反転します
から、そのままではとても不自然で気味の悪い画でしかないので、それらをプリント
でまた反転させたり、引き延ばして拡大したりして自然な画にします。

 勿論、そういう類の機材なんて無いのですが、ネガのままのサイズでプリントする
簡単な方法があったりします。
 ネガとして撮影、現像した印画紙と、まっさらな感光させていない印画紙を暗室で
の表面と表面をぴったりと重ね合わせて、ネガ印画紙の裏面側から明かりを一瞬だけ
当て、 まっさらだった方の印画紙を現像するという、聞いただけだと本当にできるの
かな? と疑いたくなるような方法ですが、やってみるとアッサリとできてしまいました。

  ちょっと工夫して書類をまとめて入れておくのに用いる透明なクリアファイルで
ネガと印画紙を挟んで奥角まで押し込むとわりと簡単に固定できて便利でした。
 そして、当てる明かりは蛍光灯ではなく、電球の方が若干コントラストがくっきり
と仕上がる気がします。たぶん、LEDでも良いと思われます。


 写真、ことさらアナログなフィルムカメラなどは、こだわればこだわる程に
 仕上がりが変わってくるものですから、現像などのマニュアルは秒数や温度、
撹拌回数など を かなりシビアな感じで提示していたりしますが、とりあえずの
入門のとっかかり なレベルではそこにこだわらなくても良いかと思います。
 というか、失敗を重ねながら数をこなさないと、どうしてマニュアルでは
こう指定しているのかが分からないのでひたすらマニュアル通り。という所から
抜け出せないものかと思います。それに今日日、確実性を求めるのならデジタル
カメラで撮った方が断然に良いです。まあですから、かえって失敗する事を意識
しすぎないで良い分、アナログカメラは楽しめるのではないかとも思う次第です。

 写真現像なんて経験は今じゃないと もう できない ものかも知れないですし。
「いつやるのか?」と考えれば、「今でしょ!」と、さほど遠くない未来に見返すと
恥ずかしくなるか、一体コイツは何を言っているのかと思われる様な一文を残して
おきます。

 若干のデジャヴュ感を感じるけど、以前似た様な事を書いてるかな…。
最近の自分の記憶力に疑問を抱きがちです。



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