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魔王って一体なんなのさ?"Maou, who are you?"

最近、テレビ愛知で「ハクション大魔王」が再放送されているのですが、やはり、今日日の
アニメーションにはない独特な味のあるアニメですねえ。

やはり、その当時であったからこそのものであって、今、同じ物を作れないし、作る意味もない
ですけどね。

一方、しっかし、最近の日本のアニメーション、絵とか動き、音声などのテクニカルな部分、
お話としての完成度はハンパないですね。

まあ、アニメーションに関しては単なる半可通でしかないのでこれ以上は止めておきますが、
「ハクション大魔王」の「大魔王」って、なんだかいわゆる「魔王」というイメージではない
ですよね。

特にテレビゲーム、ロールプレイングゲームの全盛期以降の人間からすると、

魔法は使う物の、強大な魔力がある訳じゃない。
大勢の配下がいる訳でも、世界征服をもくろんだりしない。
気が弱く、呼び出された人間の命令に従う。

というのはかなり違いますよね。

で、ウィキペディアで調べてみると、
魔王ってのは英語ではDevilとかArchenemyとなるそうで。デビルとかアークエネミーって
なんかニュアンスがちょっと飛んでしまってる気がしないでもないです。
キリスト教においての魔王ってのはサタン(ルシファー)、ベルゼブブなんだそうで。
まあ、サタンってのはイメージしやすいですよね。そして、某アニメの魔王の出自が
ベルゼブブって結構ひねった感じというか、ベルゼブブだからこそあり得た設定
ですねえ。どういう経緯で出来た話なのかちょっと気になるな。
つか、ある意味、現代版ハクション大魔王とも呼べるのか?

で、閑話休題。


「アラジンと魔法のランプ」に出てくるランプの精は
「魔神」や「魔王」とか「大魔王」とも日本語で訳されている事がハクション大魔王の
出自なんですねえ。

まあ、しかし、魔王と呼ばれながらも、ランプの中にいて、人の願いを聞くって何か、
魔王っぽくないねえ。

何かの罰ゲームなのかな。
何者かに征伐、封印されてランプの精となっているのねえ。それなら元大魔王?

いやしかし、なんでも叶える事のできる力がありながら、自分のためには使わない。
他人の願いを叶えるというのは、一見、善い存在に見えるかも知れませんが、これって
結構危険ですよね。

扱う人間の願いによっては世界を破滅、混沌の渦に巻き込みかねないですよ。
もしかすると、そこいら辺が魔王の目的だとかね。
人の欲望を暴走させて世界を破壊とか、ある一定量の人の欲望を吸収すると
ランプの封印が解けるとか。

うーん、なんというQB。というかオーズ的な感じ。

魔法のランプの前日譚みたいな話があってもよさげだなあ。神話的な物語が展開されそうな
気がする。


そいや、「アラジンと魔法のランプ」の出自って千夜一夜物語と言われているものの、
はっきりとはしていないそうですねえ。そして、主人公は中国人。

まあ、しかし、物語ってのは出自が曖昧だからこそ、面白い話になるのかもしれません。

絵はなくともイメージはできる。"Picture is not here, but the image can be thought."

新しい芸術のムーブメントというのは大抵、それまでの主流とされてきた、すばらしいと
されてきた事を否定することで、アンチテーゼとして出発することが良く見られますよね。

先日書いた事でもありますが、芸術ってのは特異点、出っ張った杭でなければ、認識されなくて、
普通な事をしていても、あまり意味のない事だと思います。

まあでも、しかし、観客にある種のトラウマを植え付ける事が芸術なんでしょうかね。

気味の悪い、気持ちの悪いもの、ナンセンスで、頭が困惑するもの。
醜悪なもの。挑戦的で攻撃的なもの。スキャンダラスな表現。

音楽で言うところのパンクロックな感じ。
「ファックユー」な精神。


強烈な感情でもって、欲望でもってそれらそれをぶちまける。
無心に、何も考えずに、吐露する。

熱い情熱というのはとても大事ですが、感情だけがすべてなんでしょうか。
全く制御されない生まれたままの感情をぶつける事が至上とするなら、

それが芸術ならば、

ごく普通な人間が真面目にコツコツと芸術家を目指すなんて無理ですよね。
それが大学まで行ってしまったら完全に真逆にベクトルが向いています。

生まれたままで、子どもなままが最高だとするなら、最高の芸術は
アールブリュットとか、アウトサイダーアートになると思います。


野性的な感情を持っているのも人間ですが、物事を冷静に見極める理性も人間の
持っているものではないでしょうか。

多くの人間による経験と伝承によって積み上げられた技術と思想。

芸術というものもそれらに含まれていると思います。

そういう地道な事を日々、積み重ねて、人に認められる人であろうと努力するのも
極めて人間的な事です。

動物はただ居るだけで動物ですが、人間が人間たりうる為には、絶えず
人間であろうとする事で、人でいられるのではないでしょうか。

それはある種の「やさしさ」ではないでしょうか。

人が人と穏やかにつながっていたい、関係を持っていたい気持ち。

つながり、関係に依存するのが人間。人と人の間にいるからこそ人間です。


感情的なのも人間的だと言われていますが、そこをもっと考えてみると、
人間的というよりも動物的、もっと言えば生物的な事なのかも知れません。
人間も動物の一部、動物も生物の一部でありますから。

外から受ける刺激によって生じた衝動をそのままダイレクトに行動に反映させる
のが感情的ならば、そういうことなのだと思います。



よく、昔の人間はもっと感情的で、野性的、要は原始的だったと思われがちなんです
けど、本当にそうなのでしょうか。

現代人ほどの理性を持っていなかったんでしょうか。

技術など、現代では当たり前なものがない分、妙な先入観で昔の人間を軽く、馬鹿に
して観てないでしょうか。

昔ほどの、生きる為に過酷な環境下において、団結力というのは必要不可欠ではないで
しょうか。

鋭い爪も、牙も、強靱な皮さえ持っていない裸の人間がどうやったら生き残れるのでしょうか。
集団の中の個体が感情的に気ままに動いていては集団として機能するでしょうか。

現代の方がよほど団結していなくても生きられると思います。孤独であろうと、物理的には
可能ですよね。

ですから、昔よりも今の情報ばかり溢れてしまって何だか分からない、人と人との関係性が
薄い現代の方がよっぽど感情的ではないかと単純に考えます。


そして、子どもというものに純粋で神聖なイメージを抱いてしまいがちですが、本当に
そうなんですかね。多少の未熟さが見られるものの、子どもだって立派な人間です。
人間の一様態です。

もちろん、多少の理性も備えてますよ。場の空気だって読めるし、打算的に子どもらしさを
利用する聡さも持ってます。それに早く一人前の人間として見られたいという欲求の強さは
相当なものです。人間であろうとする心は大人以上かも知れません。

ですから人間らしく努力するのが人間であるのなら、子ども以上に人間らしい人間は
いないのかも知れません。

ですから、その向上心を畏怖して大人は神聖視、ある種の尊敬をしているのかも知れません。

若干、話がそれました。


まあ、今日の昼下がりにやっていた岡本太郎の特集番組を観てて、テレビショッピングばりに
無制限に賛美されてて、もうちょっと客観的な感じにやって頂けたら何の疑問も感じなかった
のですが、どうにも取り上げられ方が変だったのでなんとも腑に落ちなくてウダウダと
岡本太郎をよく知りもしないのに、考え込んでしまいました。

でも、やっぱり、あの作品を作るスタンスの分かりやすさ、印象の鮮明さはすごいですよね。
一般的にも幅広く認知されてる筈ですよ。

ただ、ああいう極端な印象なタイプの人間は例外的な存在、特別な存在だからこそ成立する
もので、強く憧れて、そのスタンスを自分なりにローカライズしないまま生真面目に真似をした
ところで意味がないですよね。

自分的には芸術家の中の芸術家というのは、しっかりとした知識、技術、経験を元にしながら、
そこから大幅に飛躍できる、「守、破、離」の段階を踏んでいる人だと思います。

芸術家ってのは賢くて人の知らないところでしっかりと勉強しているものだと思います。
そんでもって人の持っているイメージ、先入観を上手く利用できているものですよ。
そして観客にある種の夢を見せる事ができる。


ああ、なんだか自分とはほど遠い、雲の上の存在だなあ。

ま、それでも、私は自分の信じるものをカタチにしていくだけですけどね。


さて、ちょいと、毎日連続投稿を目指して、色々やってきましたが、ここいらで一旦
リセットしてみます。ひさびさの画像なし投稿。

ええかげん、日付がどんどん遅れていってノルマ的にきつくなって、自分で上げすぎた
ハードルを自分で下げるという、自作自演。マッチポンプ。 orz

今週末はケツカッチンな感じがするので、更新できないかもしんないけど、
個人的に、月間アクセス記録更新を目指しているのでちょっと頑張ってみます。

マイノリティの中のマイノリティなレポート。"Minorities in the minority report"


さて、徹夜明けのハイな気分で書いた、痛いポエム的な何かを後に
追いやる為に始めましょうか。

さて、サンクガット イッツ フライデー。略して
TGIFなおめでたいノリで参りましょうか。

よくある深夜アニメにおける、第一話で何か色々な理由が有ったり
無かったりで、パンツやら裸が見える描写が入るのはもう何というか
儀式めいてる気がします。

もう、少女漫画における伝説的な都市伝説的な「遅刻しちゃう」と
トーストをくわえて駆け出すのと同じようなものかもしんない。

パンつながりか?

ええかげんに使い古された感が強くて、そういう作品ってのは大概、
つまらない…。とも言い切れないんだよなあ。

化物語は思いっきりそいう、描写入ってたりしたけど、それを抜きでも
十分にというか、そんなエロ要素なんかどうでもいい感じに面白かった
んだよなあ。話の持ってき方と、演出がすんごいツボったんだな。


まあ、あれだね、パチンコ屋に初めて行って大当たりとかしちゃうと、
 それが忘れられんくなってもう一度、みたいな感じでズルズルと深みに
ハマる現象と一緒かもしんない。やった事無いけど。

たまたま、見かけた深夜アニメが面白くって、「また次があるかも知れない」
とチェックしだすも、大半は微妙なものばかりで、結構、チープで下らない、
オリジナリティの低い、安直なものばっかりだったりしますわな。

さて、まだ2匹目のドジョウはいるんでしょうかねえ。



まあ、どうでもいいですが、最近、ようやく、フリークな方々が好きそうな
基本的にキャラで萌えて楽しむ、ゆるやか系というか、お約束設定のオンパレード
なアニメが苦手な自分に気が付きました。

なんか、結局、自分は普通がどうのではなくて、どこのジャンル、
グループに行っても、上手く馴染めないのかも知れません。

あれですね、働きアリの中のサボってるアリを集めて集団を作ると
サボってたアリが働き出して、また一定の割合のアリがサボってる
という話と一緒で、

マイナー人間のグループに入るとその中でも更にマイナーで孤立する
という感じ なのかもしんない。

なんだそのマイノリティーの中のマイノリティーみたいなのは。


まあ、なんか、こだわりというより壁を作っちゃってるのかもね
自分で。

こだわるってのは、「これじゃなきゃダメ」「これは絶対やだ」って感じに
排他的な事でもあるよね。

ある意味、人を許せるかどうかでもあると思う。

こだわりを捨てられないというのは人を信じられないというか、
不信感の表れなのかも。

人の価値観を認めないというのもこだわりの一つの側面なのかも。

まあ、そんなものは誰だって一定以上は持ってるものだろうけど。

特に自分はそれが強いレベルなんだろうなあ。

軽くこの人生を振り返ってみると、やたら妙な所で偏狭にこだわってた
よなあ。

まあ、しかし、捨てられるなら捨てるけど、捨てられないなら持ってるより
他はないものだよな。



って、なんだか全然おめでたくないノリになってんじゃん。

まあ、こだわりをこだわってても、何にもならないねえ。

気にしないのが一番ですわ。

アリ?ウサギ?"Ants like rabbits? Such as rabbits or ants."


先日、ベランダのプランターをうごめく小さい黒い影。
アミメアリがボチボチ今年も活動を再開したようですねえ。

全長せいぜい3ミリセンチメートル程度なので、結構コツが居る。
ええ、カメラで撮るならの話です。

マクロ撮影機能は最近のデジカメならどれにでも付いてると思いますが、
それでも余り大きく撮れないですねえ。

やっぱ、デジイチに接写リング付けて、久々に標準レンズ。

Pristomyrmex punctatus
Pristomyrmex punctatus posted by (C)かゆきゅう

ここまで寄って撮れます。

やっぱよく見ると違うなあと。

ええ、カメラの性能の話じゃなくて、一応このアミメアリをベースにして、
イメージソースとして、アミー・メアリという、ちっこいオレンジ色のキャラ
を作ったんですが、





先日のつるの絵の件でもそうですが、いまいち、アミメアリ
の形を消化しきれていなかったなあと。

というか、これはどっから出てきたアイデアなのやら。アリには
パッと見、見えないよなこれ。

ですので、

よーく見てみて、ディテールを抽出して、キャラにフィードバックして
みたらこうなりました。

うさぎ?

何とも面白いなあ。つか、以前のキャラがポケモン的な進化前でコレが
進化後みたい。

今回は偶然にハマってしまったんですが、むしをどうぶつに置き換えてキャラ化
というのもなんだか騙し絵みたいで、面白いかもしれません。

モチーフが2種類って仮面ライダーの怪人みたいだな。

まあ、てなわけで、いきなりですが、「むしのくに」の第二シーズンが私の中で
静かに始まりました。

つるっと出てたつるつるなつるが机をつる。"Tsuru Tsuru desk, vine vine vine was out Innovation"


さて、ダブルヘッダーでも張り切っていきますよー。

いえ、こちらの話です、大意はありません、気になさらずに。

昨日に引き続き鶴です。昨日とはえらい違いですが。
某エクスカリバーみたいだなというか、あれは鳥なのか?
 そいや、ツタージャとエクスカリバーってなんだか似てる気がするのは
気のせいかな?
あっちはたしか動物のモチーフとしては蛇だったよな。

まあ、それは置いといて、

そうそう、名古屋周辺では机を動かすことを「机吊る」といいますよね。
あと、授業の間の休み時間の事を「放課」って言うってのもありますよね。

で、まあ、そんなことはハッキリ言って関係ないですけど。

昨日、いや、先刻のいまいちイケテナイ、イカさない鶴の絵を描いた事に
よって、ようやく鶴の鶴らしさを掴めた気がします。

哲学的に申せばイデアを掴んだといった感じです。

やっぱ、緻密に書き込んで、まるで写真のようなものが描けるより、
思いっきり簡素化された中にそのモチーフらしさを表現できた方が
断然に気持ちがいいなあ。まあ、写真のようなリアルな絵って描いた事ない
ですからサッパリと分からないのですが。

絶対途中で、「なんか違う」って思いだして、どんどんその違和感が膨らんで行って
途中で止めちゃうんですよねえ。それか、「こんだけ描けば何だか分かるだろう」
で、やや書き込みが甘い状態でストップします。

鶴とか、キリンとか、「細長い」という特徴のものってキャラ化しにくいですよね。
キャラ化ってのは大体、省略する事ですから、長い所は短くなりがちなんですよね。
で、長いものって、なんというか、リアルな感じがしますよね。人が、二頭身と、
八頭身では八頭身の方がリアルな感じがしますよね。

だからどうしても手足とかを長くするとなんだかキャラっぽくないんですよね。

そいや、「◯頭身」って「◯等身」とも書かれていますけど、本来的な意味、
頭を一単位としていくつ分かを表してるんですから、
「頭身」のほうが正しい気がしますが、どうなんでしょうねえ。

これも置いといて、

まあ、自分が描いていて気持ちのいい絵というのはぱっとひらめいて、
さらさらと、つるっと一気に短時間で描けるものだったりしますね。

なんというか、自分の中にはある種のそいう、瞬間の感覚を、
それが無くならないうちにスパッと切り取りたいという傾向が
あるような気が。でもパルプ造形はそんな風に一日で完成なんて事は
絶対ないから絵と立体は違うのかなあ。自分の感覚的に。

書道的な感覚なのかな。と、書道が苦手な人間が言っても説得力ないか。
ラクガキ的と言った方がしっくりかな。

見ながら絵を描くな。しっかり集中して描け。"Drawing should not seen motif. Draw with tightly focused."

縁起モンの引出物のペインティングの作業に入る前に復習がてら鶴の写真を見て絵を描いておこうと思うも、自己の表現力というボトルネックに直面するというか、

自分の興味のレベルがイマイチ高くないものへの観察眼のなさというか、持続的に観る
という事の難しさを感じる。

資料にした写真は「鳥 Birds」久保敬親という写真家の撮った写真集で、初版が1989年
という古めのものですが、資料としては申し分ないですねえ。

川崎に居たときにアゼリアという駅前地下街でやってたブックバーゲンで入手したん
ですが、まさか具体的に有効利用できるとは当時は思っていなかったなあ。

そうそう、鶴と一言で言っても日本では丹頂鶴のことですよね大概。
英名がJapanese Craneで日本を代表する鳥のひとつなんですねえ。

手本があるということは具体的な目標、ある種のゴールがあるわけで、
その明確な到達点があることによってある種の型にはどうしてもはまって
しまいがちです。

どうしても自分というものはメモリを、RAMをあまり積んでないPC、
もしくはプロセッサのコアが一つしか無いCPUみたいなもので、
 同時に複数の事をこなすのが大変に難題です。 下手にバックグラウンド処理
 しようとするとフリーズするというものです。

ですから、観る時は観る、描く時は描く事に専念するべきですねえ。

分かり切った嘘とかを平気で吐いたりできない人間なもので、どうしても
現物が目の前にあると嘘をつけないというか、自分の認識を疑ってしまって
対象に合わせようとするあまり、自分の得意な方向とは逆の事をしようと
 してしまって無理をしてでも、結果はイマイチという、誰得なのか分からない
事をやってしまいます。

どうも、自分の表現の傾向は、読み取ったイメージをトコトン簡略化して再構築
してシンプルなカタマリ、記号として出力されやすいようです。
パルプ造形ってのは緻密な形態には向いてないのと同じで、だから、自分の表現と
 マッチしていてやりやすいのかもしれません。

そもそもを考えると、具体的なモチーフを設定してパルプで作品を作り始めた
事自体が割と最近の話ですね。

とりあえず手の動くままに、余り意識をせずに、手の感触を頼りに、切れ端を作る。
 その切れ端に更に盛っていって、これは「こんな形の一部だろう」と徐々に形が
 見えてきて、ある程度までいってようやく具体的なイメージになる。
 
そのような手順を踏んでました。

あの頃はなんというか、抽象主義みたいな感じで、具体的なイメージを持つ事を
嫌悪して避けてたぐらいだったような記憶があります。

「何か言いたいけど、聞かないでくれ」みたくとても矛盾した心境だな。

まあ、そういう悶々とネガティブなのも若さというものかも知れません。
 認めたくないものだな、若さ故の過ちというものを。

まあ、ポジティブで活動的な事=若さと考えられがちですが、逆もしかりですよ。
プラスな方向に思い込めるという事は、マイナスな方向にも思い込めます。
徹底的に内に籠るのも若さです。

どちらにせよ、感情がどうにも抑えられないのが若さってやつです。

スマホは深い深い電子の谷を越える事はできるのか。"What smartphone would be to transcend the deep, deep valley of the digital divide?"



おニューな携帯を弄っていたら午前2時を回ってしまいました。かゆきゅうです。

いやあ、スマートフォンってホント、いいものですねえ。

写真機能を売りにしてると言う訳でもないので、大して期待してませんでしたが、

カメラ携帯と謳ってない製品でも性能は十分です。そんで、「通信」という
かなり高いアドバンテージがあるのではないでしょうかね。

そもそも、そこそこのレベルのコンデジを買う人間が持つ写真へのこだわり
なんてたかが知れてる。

 データ通信を前提としたスマートフォン、もう電話ではないですね、超小型のPC
 ですね。それにカメラは欠かせない入力デバイスです。

カメラ単品だけでは存在し得ない状況がでてくるのではないでしょうかね。
記録した画像を即その場でもウェブにアップロードして公開できるというのは
かなり革命的な事ですよ。

ちょっと前では写メなんて画質の面ではどうにも、デジカメの品質には
遠く及ばないものでしたが、デジカメで撮ったまんまの品質でユビキタスに
いつでもどこでも一対一、一対多数に送信で来てしまうんです。

コンデジというカテゴリはそういう携帯、スマホなどに食われるでしょうね。

まあ、ただ、しかし、今の最新式、最先端のガジェットとはいえ、弱点は
ありますね。

まず、まだまだ高い端末の価格。今日日は携帯本体の価格もあまり割引とか
しませんから、結構びっくりする値段ですよね。スマホなんて、普通のPCが
買えるレベルですね。まあ、それを分割にして月々数千円で金利無しに
出来たりしますが。

そして、まだ問題なのは通信料金がまだまだ高いですねえ。定額パケットの
上限が設定されたとはいえ、だいたい5000円というのはちょっと苦しいですね。
そこに通話料などがのっかってしまうとね。10000円を越えにくいとは
思いますが、できればトータルで5000円以内辺りになると取っつきやすい
かなあと。

でもですよ、その通信コストが解消されてもまだ問題があるんですよ。

バッテリーの問題。

色々なスゴい機能がついてすんごい便利なスマホですが、 それらの機能を
フルに使うと、稼働時間が非情なぐらい短くなります。

 どんな便利な携帯でも電池切れればただのオブジェですよ。

ですから、例えパケット使い放題だと言っても、バッテリー温存の為に
必要ない機能はこまめに消す。というなんともエコで慎ましい運用を
心がけないと ダメです。

それが嫌なら、予備の電源などを沢山、準備しておかなくてはいけません。

あとは、インターフェイスが直感的になったとはいえ、まだまだ操作が簡単という
訳でもないですし、ベストなパフォーマンスで使おうとするとかなりコツがいります。

結局はケータイの皮を被ったパソコンですよ。スマートフォンって。

その自由度の高さ、拡張性の高さは、複雑さや分かりにくさに繋がってます。
 まだまだ、マニアのオモチャなのかもしれないです。

ですから、この世のケータイが全てスマートフォンにはなりませんね。

 多くの人が使えるのはもっと自由度が低くて、シンプルなものじゃないですかね。
って、ガラケーじゃないのかそれは。

ことに超超高齢化の進んでいる日本においてはどれだけのお年寄りがスマートフォン
を使いこなせるかと考えたら、結構難しいですよ。まあ、お年寄りの中にも新しい事
好きの積極性をもつ方もいますけど、大概は「最近の機械はサッパリ解らん」と
開き直って全く使いこなそうとしない、じいちゃんだったりしますよ。

まあ、二極化していくんでしょうねえ。

正しくデジタルデバイド。

その両者間の谷は益々深くなっていくんでしょうねえ。

まあ、情報端末といえどただの道具です。どれをどう使いこなすかは
当人次第であります。

強力な武器にも、単なる暇つぶしの道具にもなります。

まあ、個人的には情報収集、活動発信に有意義に、有効に使いこなして
元を取りたいなあと思案中ではあります。

手始めに制作中画像をツイッターに貼っていこうかなあと。


卵の殻が先か黄身が先か?"Which came first, the egg yolk or the egg shell?"


よく物事を始める際にいきなり、続けるか分からないのに、一揃いのものをしっかりと
準備してしまってから始める人を「形から入る」などと言いますけど、
 形から入らない場合は何と言うのだろうか。

形の反対って何でしょう。
「ハード」と「ソフト」な意味だと「内容」でしょうか。
外見だとすると中身。
物質だとすると精神。

格好だけではなりきりきれない。短期間ではやはり付け焼き刃な感は
拭えませんですかねえ。

しかし、外側をしっかりと固めれば、内面がついてくることは充分に
あり得ますよね。

健全な精神は健全な肉体に宿るとも言いますし。

えっと、「僕らの七日間戦争」という映画の中で冒頭に生徒指導の
教員が「服装の乱れは心の乱れ」なんて事を言ってましたよね。

ん、でもこれってのは個人の心構えと言うよりは、団体行動上の規律を
保つ為の話ですかね。



まあ、お試し期間中とか、ある程度の基本をマスターした者が状況によって
形をくずすのが普通で、最初からガチガチにやってしまうのは違うのかも
知れないですね。もしくは、そういう事ができる財力、神経をやっかんでの
皮肉。

まあでも、始めて、ある一定の段階になると、自分自身の形をしっかりと定めないと
居住まいを正して真剣に心身を構えないと、その先のレベルには到達できませんよね。

どうせ、趣味だから。とか変に線を引いてるとレベルアップは望めませんよね。

その、先へ進む覚悟という面で、形から入るということも必要なのでは
ないかと思います。

本当の始まり、真のスタートラインに立つ為に、どう自分の形を作り込むか。

ビデオゲームのロールプレイングゲームでは、始める最初に自分の分身である
キャラクターの様々なパラメーター、能力、技能、外見、性別、職業などを
を決めるキャラクターメイキングという作業をするゲームがありますけど。
こういうキャラメイクって、現実においても自分自身をどう見せて、
どうなりたいかを考える場合、必要ですよね。

なりたい自分という上級職にクラスチェンジする為には、
自分があるべき姿にフォームチェンジすることも必要かもしんないです。

そんな事を最近考えます。

何と言うか、自分の中に感じる違和感、何か違う気がする。
でもなんだかはっきりしない。でも、このままの自分は何かちがうだろうと
自分の中から沸き上がってくるコレジャナイ感が解消できないでいる。

いわゆる普通とは離れた所に居るし、更に離れて行こうとしている自分が、
何だか冴えない普通な格好というのはどうなんだろうかと思うんです。

普通の格好ってのはいわば戦場での迷彩服ですよね。目立たない様にする為の。

特にどうにも変な癖がついてしまって、それをからかわれた人間ってのは
ひたすら隠れようとしてしまうものですよね。

とりあえず、普通という仮面で偽装して、目立たなくしてとりあえずの安寧を
得るのですが、それって本当にしあわせかって言ったら難しいですよね。

常に自分自身が嘘をつく事を人から強制されているみたい。本人がどういう
つもりでかは分からないけど、嘘をつくと人は意識的にも無意識的にも罪悪感を
感じてしまうものです。

それに嘘というのは一つ、ついてしまうとどんどんと新しい嘘を重ねなくては
いけなくなるものらしいですし。余計に辛くもなるかも。

ですが、そういう嘘をつくのを止めて、自分の本性を晒しても、世の中とか、
周りが認めてくれるとは限りません。確実に波風が立ちます。諍いが起こるかも
しれません。

でもさ、現実ってのはこういうものですよ。人に分かって貰いたい、
自分を認めてほしい。人から認めてもらえる人でありたい。
そうありたいという所で、一番無難で、手っ取り早く人に認めてもらう
方法は人に媚びる事、おもねる事。人の都合の良い自分。滅私奉公。

普通に生きるならそれも悪くないです。
でもさ、そっから離れようとしている人間なのに、決めかけて迷ってる
人間なのに、そういう所で、縮こまっていてもどうしよもないでしょうに。


アーティストってのは
信じられ、怖れられ、怖がられ、疎まれ、奉られ、
敬われ、嫌われ、忌まれ、願われにゃくてはならない。

だから存在しうるのではないかと。


って、ちょっと「化物語」からセリフを引用して改竄してみました。

まあ、本来は、「アーティスト」ってのは「怪異」という
妖怪変化、魑魅魍魎の類の事なんですけど、

アーティストってのはそういう存在でないかとも思う訳です。
異質、特異であって、普通、平凡であっては存在し得ないもの
じゃないですかね。

普通でないからこそ、その存在を許されている。

ですから、人にある程度の違和感、異質感を持ってもらう事も
必要なのでないかと思うのです。短絡的かもしれませんが。

まあ、でも、そんな些細な事で変われるものならば、どんどん変わりたい
と思います。

私は、過去の自分がどうにも嫌いで、ひたすらに「変わりたい」と
願い続けて不器用ながら生きてきた様なもんですし。

そうやって今の自分は昔と比べれば、随分とマシに思えますし、
わりと好きだと思ってます。

まあ、色々と言ってきましたが、結局の所、何か変わりたいと思うものの、

何をどう変わったら良いのかという答えはまだ見つかってません。

という、ダメダメなオチがあったりしますがね。



今回は久々にアナログで紙にお絵描きしてスキャニングしてみました。
やっぱ、アナログの方が線の質感がユニークですよねえ。

一枚目のPCで着彩した絵は「フエキ建築用ソフトカラー鉛筆」って、本来はこういう
用途に使うものでないもので書いてみました。

文具売場じゃなくて、ホームセンターの土木建築関係のコーナーにあって
資材のマーキングなどに使うペンらしいです。

クレヨンの芯のシャープペンシルみたいで、面白い線が引けます。

ある意味、大人のクレヨンかもしれないです。

まあ、2枚目は普通に文具ですが、三菱 ユニボール シグノ 超極細0.28ミリの
インク色がブルーブラックって、恐らく、普段の筆記には余り用いないであろう
ピーキーな細さと色のボールペンです。勢い良くガリガリ書いてると、紙が破け
そうですね。って、やっぱそういう用途じゃないよな多分。

さて、制作中写真でも上げて行きたいとこですが、どうにもシックリと来て
ないんですよね。

塗装作業に入ってないから地味なんだよなあ。

例え、独りぼっちであってもチームワークは必要である。"For example, teamwork is essential, even alone."

うーん、絵の描き方が、まず写真をどれ使うのかから始めると、シュチュエーション
コメディみたいなストーリーの組み方みたいな。というか、舞台から発想して
いく感じ。

場があって、そこに人が集まる。みたいな。

この絵のの元ネタの写真は2002年の4月に春日井市の落合公園で撮ったものです。

地元の人間なら知っている花見の名所ですね。

ただ、この近辺のロールのフォルダを見ても、さくらの咲いているいわゆる
ベタな絵が少ないですね。今の私なら、平気で5〜60枚は撮ってるとこですが。
まあ、メモリー、バッテリーの容量の都合というのもあるでしょう。
しかし、写真から積極性を感じない。
まあ、写真は撮れば撮るほど、上達し、積極的になるものですねえ。

変に拘ってて、妙に構えてるし、消極的だなあ。

で、これ、まず最初に卒業した大学のクラスメート数人が集まって
花見でバーベキューをした後日に、出直して撮っているんですよね。

まあ、グループでいると団体行動を重んじて、単独行動をしない彼は
なんか、写真を撮りたかったけど、周りに遠慮して、撮らなかったん
だろうなあと。

で、後日、わざわざ、サイクリングも兼ねて尾張旭から走ってきてるんですから
なんかエネルギーの使い方がおかしいな。さすが20代。

何か迷って、モヤモヤして、ネガティブなんだけど、妙な事をしだすと有り余る
体力で突っ走ってんなあ。

なんだか壊れかけの電化製品みたいだな。

まあ、そう思うと、若いのは若いなりに大変だったよなあと。
 感情を全然制御できなくてブン回されてたなあ。

それを思うと、ある程度ハンドリングできている今の自分は バランス的には
悪くないなと。

ちょっとは冷静に物事を見られるようにはなったつもりです。
が、まだまだ、思考力が足りてないし、行動力も不足しております。

まあ、こうやって、自分の撮った過去写真は日記を読み返すよりも客観的に
昔の自分を見る事ができますね。

写真ってのは撮る人間の視点が反映されますが、写したものにはその視点、
意図とを越えたものも一緒に写るものですから自分の思っていた事と現実がどう
いう関係だったのかを今の視点で推量で来ます。

日記というのは自分の感情を並べてしまいますので、事実はどうだったのか
その証拠を確認しづらいのではないかと思います。

 それに、過去の自分の精神の荒廃ぶりはさすがに直視したくないなと。
過去のラクガキを見るのでも、ちょっとした恐怖を伴ったものを、
 それを文章なんてもので見たらまた発狂しそうですよ。

 まあ、今が今とて正常でまともなのかとは限りませんけど。

 基本的に、過去の自分と今の自分、未来の自分はすべて別物ですよね。

人間て一日ごとに別人が入れ替わってるような気がします。

もっと短いスパンの可能性もありますが。




起きて寝るまでがその日の人格が生きている時間。

寝て起きるまでに新しい自分が昨日までの記憶を引き継いで新しい
自分がまた一日を始める。

でないと、昨日まで満足していた事が今日になって不満に思えたり、
妙に落ち込んでいた自分が馬鹿に思えたりってなんだかおかしな気がします。

別人なのであれば何となく納得できる様な。

まあ、一日一日、一人しかいないその日の自分を大事につないで行ってこそ、
その先には輝かしい日や、素晴らしい景色が見えてくるのではないでしょうか。

 そのすべては一人で作るんじゃなくて、その日、その日の代わりの居ない、
 休む事が出来ない自分が請け負うものでないかと。

 だれが抜けても、自分という人生は完結しません。

 せっかく過去の自分達が積み上げたものを一人の自分がぶち壊すなんては、
 本来やってはいけない。過去の自分達の思いを汲んで、例えその日が辛くても、
 悲しくても、下らなく見えても諦めてはいかんのではないかと思います。

今日の自分という存在が居ると言う事は、過去の自分達が引き継いできて
くれたからで、一人孤独に進んできた訳じゃない。自分だけであっても一人
ではない。

いろんな艱難辛苦を共にしてきた自分という人生の仲間なんです。


ま、こうやって一つのものを複数として、複数のものを一つのものとして
捉えてみると、違った景色が見えてきて面白いですね。

こうやって、視線を自由に動かせるか否かって、人生が辛いか否かに関わります。

さて、今日の自分は自分としての役割りを自分なりに果たせたのかな。
次の日の自分に良い状態でバトンを渡せたんだろうか。

まあ、それはもう、また、別の自分の話ですね。

私達は進む、夕暮れの帰り道を。"We go, way back in twilight together."

一年は四つの季節に分けられますが、その一年の四つ季節を人間の一生に
なぞらえて青春、朱夏、白秋、玄冬などと言われたりします。

人の普段の一日は大概、どこかへ出かけて行って、帰って来ますよね。
では、その一日を人の一生に例えてみた時に、人はどこかへ出かけて行ったと
すると、また同じ場所に帰るのでしょうか。

そういえば、年を取ると逆に子どもに戻って行く。なんて言いますね。
戻るにしても、往路と復路では同じ道であってもやはりいろいろと
違うものですよね。

出かける時はどうしても、ピリピリと緊張をしてしまうものですが、
帰り道というのは何だか安心感がありますよね。

まあ、ですから、帰り道の象徴である、一日を無事乗り切れたという
達成感、安堵感を得られる夕日、夕焼けというのは、個人的に、朝日、
朝焼けよりも好きなものです。

まあ、同じ夕方でも、日曜日の夕方の終ってしまった感というか、
サザエさんシンドロームな空気感はどうにも苦手ですけどね。

また、何が起こるか分からない一日が来てしまうと思うと、憂鬱なものです。
人生は善くも悪くも回りますから、それが怖いですよね。

ドキがムネムネする感じというのはたまには良いけど、それを毎日というのも
考えものです。

まあ、でも、そんな感じで、分からなくて普通です。怖くて普通なんでしょうねえ。


写真を素材にお絵描きってのは良いのですが、上記にあった様に、自分の撮ってる
写真って夕焼けが多いんですよね。暗い絵か、オレンジ色の絵に偏るかなあ。

ま、いっか。

さてさて、制作作業の写真もコンスタントに上げて行かないとなんだか
仕事してない様に思われそうですんでとりあえず、あまり、作為とかを
せずに、適当にポートレイトしてきます。

20110411Work today-1.
20110411Work today-1. posted by (C)かゆきゅう

20110411Work today-2.
20110411Work today-2. posted by (C)かゆきゅう

うーん、画像だけだと状況というか、塗装もしてないやつだから
さっぱりわからないですかねえ。ダメじゃん。

豊橋の展示用作品もボチボチペースを上げてかないと大変なんですよね。
モチーフに困るというか、モチーフに迷いますね。 なんだか自分の中で
 何かしっくりしていない部分がある。迷いがあるかな。
 
まあ、そこいら辺の自分のリミッターを外さないと中途半端になりそう。
 気を付けないとな。

引きでもんズに関しては25体分の原型というか芯の削り出しは終了してます。
随時パルプ盛りも平行して行ってますので、順調ですねえ。

まあ、とにかく、何事も、日々の積み重ねですねえ。
毎日動かして行かないと、滞ってしまいます。

まあ、本サイトの更新が停滞してて申し訳ないけど。

綺麗なバラには棘があり、美しいサクラには魔力が宿る。"Every rose has its thorn. There's no SAKURA without a magic power."

Nameko and zucchini Tomato sauce Pasta.
Nameko and zucchini Tomato sauce Pasta. posted by (C)かゆきゅう

投稿タイトルに反して、いきなりの食べ物画像。そして、備忘録的なレシピ。

先日、昼食に作った「ナメコとズッキーニのトマトソースパスタ」

材料:なめこ、ズッキーニ、ニンジン トマト缶、スープの素(コンソメ、中華何でもお好みで)、
オリーブオイル、にんにく、とうがらし、塩、こしょう、バジル(生、乾燥問わず)

スライスしたにんにく、とうがらしを適量オリーブオイルを入れたフライパンで加熱。
にんにくが茶色くなってきたら、とうがらしは取り除いて、具材を投下し、塩こしょう。
順番はニンジン、ズッキーニ、なめこの順だと各素材に適度に火が通ります。
塩こしょうはお好みの量で。
炒めたら、トマト缶の中身を投入し、スープの素を入れる。水分が少ないようなら
水を入れて濃度を調整。バジルを入れて風味を整える。

仕上げはフライパンにゆでたパスタを入れて和えても、皿に盛ったゆでパスタに
ソースをかけても、どちらでもいいですね。

パルメザンチーズを振りかけてもよさげです。


さすがに昼ご飯が即席麺ばかりだと正直、飽きが来てしまいますので、ちょっとパスタなどを。
ソースとか、ゆでたパスタを容器にいれて冷蔵庫で保管すると、暖めるだけですぐ食べられて
便利ですよね。


さて、ここからが本題です。


サクサク春のさくら祭り~。

たとえ、パン祭りは中止でも、自重モード、いえ、自粛ムードなぞなんのその。

不貞、不謹慎どんとこい。サクラは咲きます。どこにでも。


サクラには人を癒す力があるって、どこぞのヤブ医者さんも言ってました。

いやあ、サクラはスゴイですよね。すごいですが、散った後に

効果が消えて五月病突入というケースもベタで良くありますけどね。


さて、

春の陽気に誘われて、ふらりとサクラを見に行こう。

と言う訳でなく、先日の投稿通りに、家でダラダラとゲーム三昧を予定して
いましたが、急遽、名古屋の桜山まで人の用事の付き添い。

別に、そこいらの浮かれてるリア充に影響された訳じゃないんだからね。
ただ、付き合いで行っただけなんだから~。

では以下、ひたすらサクラ画像をお楽しみ下さい。


In Owariasahi. Side of the reservoir.
In Owariasahi. Side of the reservoir. posted by (C)かゆきゅう

Owariasahi towards the Nagakute.
Owariasahi towards the Nagakute. posted by (C)かゆきゅう

Like a stage drama, the scene of cherry blossoms school zone.
Like a stage drama, the scene of cherry blossoms school zone. posted by (C)かゆきゅう

Flowers still bloom.
Flowers still bloom. posted by (C)かゆきゅう

It feels like summer and spring come together.
It feels like summer and spring come together. posted by (C)かゆきゅう

Composition is predictable.
Composition is predictable. posted by (C)かゆきゅう

Sakurayama Sakura.
Sakurayama Sakura. posted by (C)かゆきゅう

Like a rose bud.
Like a rose bud. posted by (C)かゆきゅう

Sakura Yamazaki river views.
Sakura Yamazaki river views. posted by (C)かゆきゅう


Sakura of the brook in the city.
Sakura of the brook in the city. posted by (C)かゆきゅう

Sakura and Spiraea thunbergii trail.
Sakura and Spiraea thunbergii trail. posted by (C)かゆきゅう


What plane is that the cherry blossoms can be seen this.
What plane is that the cherry blossoms can be seen this. posted by (C)かゆきゅう

Families walk the path of Sakuras.
Families walk the path of Sakuras. posted by (C)かゆきゅう


本来ならば、今日も、趣味的なネタを炸裂させたかったところですが、流石にちょっと限界です。
披露、いや疲労的な意味で。

書きたいネタが湯水の如く、放射性物質の如く、増殖しているのですが、っていうのは不謹慎
極まりないか。申し訳ない。

まあ、原子炉を排泄物で説明すると分かり易いですよね。
つまり、人間も単なるクソ袋です。自制心という閉じ込めている殻が、自己の驕り高ぶった
汚物であるどす黒い感情の熱や、圧力で裂けてしまえば自分の中からひたすら、
臭いもの、汚いモノを吐き散らかす訳です。


まあ、ですが、そうなのですが、
その「綺麗」だとか、「汚い」という概念は誰が決めるのでしょう。
そんな極めて感覚的な根拠は誰が示せるでしょうか。

世の中には毒ではあるけど、有益な物質は沢山あります。

どんなに清潔に見えても、清潔であっても、当人が汚いと思えば汚いモノでしか
ありません。

どれほど、不潔で、吐き気を催しそうなものであっても、当人がケセラセラと、
箸にも棒にも掛けなければ、汚くもないです。

世の中に、綺麗なモノも、汚いモノも、存在しません。
ただ、綺麗という認識、汚いという認識が頭の中に価値観としてあるだけです。

と、話が脱線気味に動き出して危険極まりないので、ここいらで終了です。


久々に今日はノーお絵かきでフィニッシュです。



いやあ、せっかくの美しいサクラの画像載っけといて、随分と酷く汚い終わり方だな。

まあ、ですから、そう言う概念とか価値観というのは…。


そいや、美意識の中には、美しいものは美しいという美意識と、

醜い事を美とする美意識、「醜悪美」というもの

あるそうですよ。

確か、川崎生まれの偉大な芸術家がそう言ってたような気がします。

今宵、月が見えずとも。埒の明かない夜としても。- I can not see the moon tonight in fog. No see the outline of a dark night.-

大概、人が絶望する時は、たまたま、今まで自分が知らなかったものを
世界のとてもネガティブな面を直視してしまって、それまでの自分の中の
現実と思っていたお花畑が、単なる妄想上の産物だと思い知ったとき
なのではないでしょうかね。

単に知らなかっただけ。たまたま今の今までそんなケースに出会わ
なかっただけ。

まあ、自分の中の現実感を壊されるというのはとてつもなくショッキングな
事です。

多くの人は、正常な、不足なく充足している状態であれば、人に辛く当たる
事は、それ程ないです。ただ、それが、切羽詰まって、刺客が行く手を
塞いでいるのにも関わらず、手にしている刀が鞘から抜けない様な状態、
追い込まれていると、冷静ではいられないでしょう。心細い。

そんな様な時は、些細な事でも、どうにも心が波立ってしまって必要
以上に相手に食って掛かったり、相当冷たい仕打ちをさも当然の如くして
しまうものです。

現実は何も変わってはいない、少しばかり見方が変わっただけです。

全てが全て、ポジティブに優しい事ばかりじゃなくて。
皆が皆、ネガティブに冷たい訳じゃない。

そういう、世の中の一部分にフォーカスが合ってしまって、
それが動かなくなる不具合に気が付かない。

そういう、思考停止、視点固定状態こそが、全てを悲観する元凶です。

そういう類いの畏れに似た猜疑心が何もない筈の暗闇から鬼を呼び出したり
するんです。

 現実を直視する勇気も必要ですが、見えているけど見るべきでない、
見る必要のないものから目を逸らす、クールにスルーできる聡明さも
 持ち合わせていないと。

 逃げたいのであれば、逃げても良いんですよ。臆病者と罵られようが、
 生きてこそです。

とあるタイムマシンの出てくる映画で居ましたよね、「臆病者」と
言われる事が大嫌いで、 それをからかわれるとムキになって相手の
挑発に乗ってしまって、大失敗をする主人公が。

最終的に彼の運命を変えたのは何だったでしょうか。
えっと、タイムマシンではないです。それはきっかけに過ぎなくて、
色々な経験、失敗を重ねて自己の愚かさに気が付いたからです。

まあ、世の中色んな事がありましたが、様々な変化がありましたが、
不幸な事を経験し過ぎて、ネガティブにしか考えられなくなりがちですが、
世界の根本的な部分はなんら変わりないです。

良い奴も悪い奴も普通で目立たない奴もいるのが世界です。

ただみんな、ショックで臆病になってるだけです。

そんな臆病風に吹かれて波紋が広がっている世界ですが、それでも
愛すべき、愛おしい世界である事はいつになろうとも変わらない筈です。

泣いて過ごしても、笑って過ごしても同じ時間です。

自分の思う様に過ごせば良いんです。

で、まあ、少しでも余裕があるようなら、隣の人間の事も慮っていければ
ちょっとはマシなっていくかもしれないです。



ふー、今日の天気が、ある歌のタイトルを連想して、そこから色々と
連想が繋がってまた歌に戻るとは予想だにしませんでしたわ。

カラオケ2連チャンの影響ですかねえ。

やっぱ歌はいいですねえ。聞くのもいいけど、歌うのも歌をもっと深く
味わえて、理解度も、感動も強まりますね。
上手下手とか、人に聞かせる聞かせないとかは置いといても。


まあ、世の中、先が分からなくて、どうとでも転がるのは面白いですねえ。
全ては繋がってるんですよ。糾える縄の様に。


えっと、投稿の挿絵についても書いといた方がいいかな。
先日の投稿も分かりにくいですが矢田川の河川敷で撮った
写真を元にしてます。

昨日のが2000年で、今日のは2001年に撮ったもの。
私の愛すべき最初のデジカメ、フジのファインピクス4700ZB。

あの頃、コンデジでもそこそこの性能のものは記録メディア、
オプション込みで10万円越えたんですよね。

今なら、入門機クラスと言えどデジ一眼がレンズキット込みで
買えてしまいますねえ。

ですから、あの当時、デジカメって結構時代の最先端なイカした
ガジェットではありました。

まあ、ですから若干荒めの画像ですがそこそこ良い絵だと思って
使ってみてます。

 先日が、黄昏れる福犬(リアルバージョン)で、
今回は、むしシリーズにしようかと藐然と考えてて、
元画像を弄り回しているウチに、夕方の写真なんですが、
夜みたく加工して、じゃあ夜行性のむしがいいかなと考えて、
 クワガタですね。

まあ、ガーリーな感じですが、本来、メスのクワガタは顎部分が
それほど大きくないんですよね。

まあ、でもいいか、「くわが◯つまみ」というキャラも世の中にゃ
いますし。

ま、行き当たりばったりな絵なので特にメッセージとかないですけど、
クワガタ風な妖精と夜川辺の図ということで。

で、川の絵ちゅうことで、この投稿はスメタナのモルダウを聞きながら
お送りしましたー。男〜は大き〜な川になれ〜♪

ではみなさま、おはようございました。良い週末を。

犬が西を向けばその尾は東を向くと言う。-Looking west dog, say the tail toward the east.-


バナナの皮は黄色いのに、乾くと茶色になるのは何故だろう。
オレンジの皮は乾いてもオレンジ色のままなのに。

ああ、でも草とか葉っぱは枯れると茶色になるな。

そいや、バナナの実は熟す前は緑だな。それが黄色くなって、
乾かなくても熟し過ぎると茶色になるな。

多くの木の葉も黄色く色付くよね。

つまり黄色は葉緑素が抜け出る一段階。
 ということなのかな。

まあ、門外漢なので正しい仮定なのかは分かりませんけど。

 まあ、でも、自分なりに考えて、推定して、考えをまとめる
ちゅうことは大事ですよね。それが間違いでも、正解でも。

いや、むしろ、積極的に間違えるべきなのかもしんないですね。

正しさというものに捕われ過ぎても、こだわり過ぎても、そんな
つねに一直線に正解を求める姿勢ちゅうのは面白いんかねえ。

正解ってのは結果とも言えないですかね。回答てのは問題のゴール、
結論であり結果。

難しい問題というのは、様々な仮定、可能性を考えて、その仮定は
 正しいのかを確かめて、自分が立てた仮説に正解があるのかを
探さないとなかなか出てきませんよね。

まあ、人によっては類い稀なる直感や、単に運が良いだけとしか
思えないように一発で正解にたどり着く方がいらっしゃいますが、
 そういうのって、基本的に、原理原則の中の例外、レアケースで
 あって、そういうスマートさに憧れてしまうと、高望みして
しまうと、どうにも無理をして近道をしだして、しまいには
カンニングとかルールを逸脱した行為に走りがちです。

たとえスゴいと思われる人間でもものすごい数の問題を解いて
いるから、新しい問題を過去の様々な回答から分析して
 答えを出せるんですよね。

 疑問、問題というのは一種のゲームです。
 例えばロールプレイングゲームでレベル100までキャラを
 育てる事を、一つの問題として仮定して、そこまで到達する
にはいくつも方法があって、その中には割合、労力が少ない
ルートがあったりします。

なかには全く労力のかからない禁じ手があったりします。

でも、そんな手を使ってまで労力を惜しんでズルをするのはもう、
ゲームをプレイする姿勢として根本的におかしいですよね。

 ゲームがめんどくさいならもう、それは続ける意味がないです。

ゲームのしちめんどくさい、手間ひまをこなしてこそキャラだけでなく、
プレイしている プレイヤーにも経験値が入るというものです。

無駄と思える行為に自分なりの意味とか価値を見出すのって活きる上で
不可欠ですよね。

ま、高々、ゲームなんかをチートまでしてプレイするなんて人間が小さいですねえ。
と、言ってしまうとちょいと語弊がありますねえ。

「ゲーム感覚で物事に当たる」と言うと不真面目にとられがちですが、それは
違いますよね。

ゲームってのは真剣に熱中してやってこそ面白いじゃないですか。

だから別段、不真面目でも何でもないです。

ゲームに熱中できない人間は何にも真剣に向き合えませんよ。

ま、ある程度の冷静さってのは何をするにおいても必要ですけどね。


さて、何か、オレンジの皮の色が乾燥しても変わらないという問いの
答えが出てない気もしますが、ここいらで終わりたいと思います。

ま、そのうち分かるかも知れないですし。急いては事を為損じるとも
言いますし。

続ける事が大事ですねえ。何事も。

ま、犬が西向きゃ尾は東のように当たり前な事ですねえ。

って、無理にタイトルと絡めて切り上げます。

では皆様。おはようございました。

描くだけが絵じゃない。写真は撮るだけじゃ意味がない。-Not only draw the picture. Then pictures are taken does not make sense.-


桜だけが花じゃない。と言いつつ桜の絵です。

どうしても、作業が立て込んでくると、やりたい事ばかりで、
収集つかないと、どうにも時間が一日が24時間で終らないですね。

時間がどんどんずれ込んで夜の住人に、アンデッドな生活になり
がちでございます。

不健康なのは分かるんですけど、自分がこうしたいと言う思いに
正直であろうとすると、一般的な模範解答ではどうにも収まりが
悪くなってしまうものです。

まあ、それでも、睡眠時間には敏感なので、一日8時間は寝てないと
体の調子というか意識をしっかりと保てないような気がしてどうにも
駄目ですね。

まあ、最近は物理的に目の疲労が誤魔化せないので完全な徹夜は無理
ですね。

よく、仕事で忙しい親御さんがお子さんに「また今度な」と言ってしまう
なんてのはまあ良くある事ですよね。

その今度が何時なのかは誰も知らない。 別段、嘘のつもりでも
なかったのに、結局はその「今度」が来ない。結果として嘘に
なってしまう。

その約束した時点では本当であっても、時間経過によって嘘になって
しまうことはいろいろあります。

 嘘をつかないと言う事は、言葉だけの事ではないですね。有言実行してこそ
それは事実であり、偽らわざる本当です。

夢を夢のままにして諦める、それは過去の自分の思いを裏切る、
今の自分が過去の自分に嘘をついて騙した事なのかもしれません。

少なくともそういう後ろめたさを感じずに居られないので、
人は色んな言い訳をするんですよね。

嘘をついた相手が自分自身だと、どうにも色々な線引きが曖昧になって
結局、自分を許せていない事に気が付かなかったりするんですよね。

そういう完結しない曖昧な感情が積もり積もっていくと、人は知らず知らず
疲弊して行くものかも知れないです。

ま、ですから、極力、自分の感情に素直に、思い立った事は可能な限り
溜め込まずに実現して行きたいと切に願って、少々の無理をしてみたり
します。

やはり、物事には終わりが無いと苦しいですよ。結果のでない中途半端なの
は意外に苦しいものです。

だから人生には終わりがある。だから救いがあるんですよ。

終らない人生。いわゆるフィクションの世界で多くの悪の権化たる
敵役が欲する不老不死ですよね。

もしも、普通の人間がそんなものをまかり間違って手に入れてしまったら
もうそれは悲劇というか、何と言う無限地獄でしょうかね。

自分という一個体が永久に生き残っても全く意味がないですよね。
孤立無縁の孤独地獄。地獄に堕ちたのと同じ事ですね。
人間ってのは「人の間」と書いて人間です。人と人との間がなければ
それは人間ではないですよ。

まあ、それでも、孤独である事に何の躊躇もせずに盲進できる時点で
そんなのは人間ではないですよね。非情で無情です。

それはもう神か悪魔でしょう。

まあ、万が一、技術の進歩で遠い未来に人間が永久的な命を
手に入れたらその瞬間に人間でなくて神になるのかもしんないです。

おっとっと、話のスケールがえらいとこまで飛んでしまいました。

ちょっと半徹で気持ち、気持ちがハイになってるかもしんないです。

まあ、こうやってブログの投稿がやたら長いのも、自分の感情を
可能な限り吐露したいという思いからなのかもと思った次第。


さて、多分ここからがこの投稿の本題です。
なんだかクイズ番組みたいな言い方だなあ。

先日絵を描く際に下地になる素材、テクスチャーといいますか
それの上に絵を描くことをしたんですが、ちょっとそれが変わった
感じで、写真を元にして、素材にして絵を描くという方向になって
きてます。

ブログ読んでる方は分かると思いますが、私は結構なペースで写真を
撮ってるのですが、実情、これはいいなと思って撮った写真も記憶装置の
中に堆く積まれているだけで、日の目を見ない画像が唸るほどあります。

自分は一体何の為に写真を撮ってるのだろうと、これは何かに
繋がらないのかなと少なからず思っていたんですけど、今日、桜の
写真 を素材にして絵を描いてみて何だかしっくりきましたね。

ああ、こういう感じというのがちょっと見えたような。

以前はコピーライト代わりに写真にちょっとラクガキする程度の
事をやっていたのですが、もっとそれを材料にして切った張ったの
作業や、PCならではの各種の色補正、フィルタを使っての総合的な
描画。

というよりも、あれですね、いわゆるモダンメティエのひとつ。
コラージュのですよね。

絵や写真を切ったり貼ったりその上に描いたりするんですから、
原理的にはコラージュですよね。

まあ、CGを専門としている方々からすると当たり前で、
「お前なに言ってんの」なレベルなのかもしんないですけど。

なんだか絵って、描くものだという固定観念って強いですよね。

どうしても写真とかをベタベタ貼って作品を作るのって世間一般的な
作品というものからすると亜流というか、マイノリティというのか。

なんか自己の画力でなくて素材の力を借りて構成しているみたいで
なんとなく卑怯臭いイメージってあると思います。

まあ、でも、厳密な事を言えば、典型的な絵画だって、支持体の上に
色材を筆に引っ掛けて運んで配置しているわけですから、完全に別なもの

と言い切ることもできないのではないかという気がします。


まあ、こういう、世間一般の常識というものを疑って新しい発見を
するというのも面白いものですよね。

まあ、かなり昔にそんな事分かっていたのかも知れないですけどね。

ですが、今、自分の感覚としてしっかりと感じられた事は大事です。

やっぱ、知識は実感が伴わないとちょっと弱いですよね。


Lantern fish dried overnight.
Lantern fish dried overnight. posted by (C)かゆきゅう

さて、結論らしい結論が出たのでここで終りたいと思いますが、
準備してた写真が余計になってしまいまみた。

失礼、噛みました。

ああ、ハダカイワシとその英名ランタンフィッシュのネタもちょっと
書きたいなあと思いましたが、ここいらが心身の限界です。

ま、言語、文化間における、価値観というか、目の付けどころの差は
比較すると面白いですよね。

熱している鍋は混ぜ続けなければ焦げ付いてしまう。-Heat the stew pot that must continue to stir. Would otherwise burn the bottom of the pot.-

今日も今日とて、つらづらと話があっちゃこっちゃ飛びますので、まず、投稿タイトル
に即した話からしておこう。

今日、いや、すみません、コレを書いている時間からいくと昨日ですが。晩ご飯を
カレーライスにしたんです。

 カレーを何度か作った事のある方はお分かりかと存じますが、一般的な
カレーのルウのとろみというのは小麦粉や、糖分などが含まれているから
なのですが、そういうとろみを含んでいる液体というか、半個体を加熱する
際には、十分に撹拌をしないと、鍋底が焦げてきて、最悪の場合、まあ全部
焦がすという事は滅多にしなくても、焦げが重篤な状態までいくと、
焦げてない部分にも焦げたニオイが染み込んでしまいまして、正直、

マズいです。
おいしくないです。

ですから、加熱中は焦げない様によく鍋をかき混ぜないと駄目です。

ああ、別に今日、そういう失敗をした訳ではないですよ。
もう十年以上昔の話ですね。

ふと、思うのですが、昨今の日本経済の様相ってのは案外この、焦げかけてる
カレー鍋みたいなものかもしれないですね。

お金というのもおいしい、甘いものですから、一カ所に固まってしまうと鍋全体から
観ると非常によろしくない状態ですね。底の方に凝り固まって、お焦げが鍋に充満
してくると社会というカレーはどんどん焦げ臭くておいしくなくなってしまうの
ではないかなあと。

そいや王様のレストランで、毎回最初に料理にちなんだ格言みたいのが出てきて
ましたよね。

その中に、「社会で起こる事は鍋の中でも起こる」だったかその逆で、
「鍋の中で起こる事は社会でも起きる」かも知れない。そもそも「社会」で
合っているのか、もしかしたら「世界」だったかも知れない。
 まあ、その様な言葉があったんですが、

あながち誇張という訳でもなく、結構、的を得ている言葉なのかも知れないですね。


さて、さて、話は変わりますけども、まあ、この先は実に下らないので、読まなくても
結構ですけども。


先日、iPod、iPhoneのアプリが色々と復興支援の名の下にディスカウントされ、その
金額を義援金に回すとか、無料で提供というような自然発生的なキャンペーンが展開
されていたのですが、普段はおそらく目にも留めないようなアプリをダウンロード
してみたりしたんですよ。

まあ、その中にいわゆるギャルゲも含まれていたのですが、何と言いますか。

存在とか、傾向自体はネットなどを通じて何となく分かってはいたのですが、
なんちゃって半可通なマニアな私としてはここいらを機会にちょっと触って
みよかと魔が差したのですが、いやーすごいですね、最近のアプリは。

テキスト、グラフィック、音声のボリュームが半端ないですね。

ですけども、それがそれで良いとも言い難いんですよね。

大概のギャルゲってのはゲームのシステム的な区分でいうとアドベンチャーとか、
サウンドノベル的な位置づけになるんですよね。
ぶっちゃけて言うと色々な選択肢を選ぶ事によって物語が分岐する、一時期あった
書籍ジャンルのゲームブックの電子版というか。ノベルゲームというか。

まあ、ギャルゲではないけど、一番最近やったソレ系のゲームとなるともうね、
結構古いんですけど、プレイステーション版の「かまいたちの夜」だったか、「弟切草」
ぐらいしかないんですよね。

その頃のものもグラフィック面は結構キレイに出来てましたけど、さすがに「喋る」までは
なかったですねえ。まあ、その「喋る」演出方法が合ってるのかは別として。

言葉と一言でくくってしまっても、喋る言葉と、こういう風に書いている言葉って
厳密な話、異なるじゃないですか。

それを吹き出し部分だけとはいえ、音声で読まれてしまうとどうにも文章を読み
にくいなあと。

本の良い所って自分のペースで読める所がありますよね。でも、
そこに音声という要素が加わってしまうとどうにもペースが狂う。
いちいち全部の音声を聞くのが面倒というか、そこにどうしても待ち時間が
できてしまって、冗長になってしまうんですよね。

読み飛ばしてもかなりある文量なのにそんな音声をいちいち聞いていたら時間が
かかって仕様がない。

あれですね、最近のゲームでありがちな基本的に操作が出来ないムービーシーンと
同じですかね。そいや、某大作RPGをプレイしてて、最初辺りはゲーム進行上の
不都合があるといけないからと 真面目にちゃんとムービーを観てたのに、中盤以降
さすがに億劫になってしまって、結構な頻度でムービーをスキップしてましたね。

まあ、ムービーを観たい、このキャラの声を聞きたいという人もいると存じますが、
私的にはぶっちゃけて、歯に衣着せずに言ってしまえば、正直、必要ないんですよね。
制作者側に申し訳ないというしかないですが。

文章を読むときはそれに意識を集中させたいんですよね。
ぶっちゃけ、ビジュアル的なものも要らない。

ラノベで挿絵が要らないと思ってしまうぐらいのレベル。

なんというか本末転倒。

挙げ句に、かわいいキャラクターとの会話云々よりも、
うんちく知識の話に興味が向いてしまう。

いや、もっとそのパンクロックの話を詳しく聞かせてくれとか、
もうね、ギャルゲをプレイすべき態度じゃないな。完全に。

人間がすれてるから、人から訳なく妙に優しく接されると正直、
気味悪いというか、なんかコイツ企んでるんじゃないかと
身構える質でして。どうしても甘ったるい展開は苦手です。
作り話なんですから嘘くさくて当然なんですが、そこで一旦引いて観て
しまう。白けた目で事物を見てしまう自分がいる訳で。

ヒーローショーで中の人がどうとか言っちゃう中二と大差ない感じ?

ああ、なんかすんごいネガティブな自分を発見してしまったな…。
やだやだ。

まあ、今回、自分にはギャルゲが向いていない事を確認できましたとさ。

落とし神にはなれそうにありません。ま、 戯言ですが。

さて、これはこれでめでたいのかな?


ま、自分の可能性よりも不可能性を知る方が経験としては有益かもです。

可能性、出来る事をを知る事よりも、出来ない、不可能な事が分かった方が
自分の方向性、個性てのが良く理解できるものですよ。

可能性を知れば人は無理をする。不可能性を知れば人は無茶をしない。

主人公に科せられた真の使命。-The real mission of the hero-

桜がボチボチ咲き始めて、駅の窓口の定期券の購入手続きの列を見て。
春ですねえ。
ちょっと桜紅茶で、風流を気取ってみたりしてます。

作風を弄ったというか、ちょっと描き方を変えてみました。
ペンタブで、いい線を引こうとする余り、意識が妙に偏り過ぎて、
他に留意すべき点をおきっぱにしてたかなあと。
ブラシはいくつも種類があるのに、ベーシックなものしか使ってないし、
地の部分は単にペンキツールで基本ベタ塗り。

質感というか、テクスチャーて大事じゃないかなあと。

それに、キレイな線というのは自分の柄じゃないなあと。どっちかというと、
味のある線だよなあと。

まあ、割と成功している気がする。まあ、基礎力ないのを誤魔化してると
いえば誤魔化しだけど。

さて、話は変わりますが、

小学校の事を英語でプライマリースクールとかエレメンタリースクールって言うのって
なんかいいよね。

すんごい大事な事を、基礎の基礎を学ぶって感じがあるよね。

どうしても小学校レベルと言うと、低レベルでしょうもない事と受け止められて
しまいがちですけど、全ての学力の、理解力の基礎となる部分、核となる部分
ですから、ココを疎かにしたら、真っ当な学力は期待できませんよね。

モノを作るにおいても作り手の根本部分に核となるモチベーション、こうしたいという
強い思いがないと良いものは作れませんよね。

作品を作る上での最初の一歩。

「何をつくるか」「何を描くか」「何を表現したいか」

具体的なイメージが湧かないと作品はどうにも曖昧模糊としてああでもない
こうでもないをひたすら繰り返して、完成までの道のりがいつまで経っても
見えてこない。そして未完成。

分からないものを分からないなりに作るというプロセスもアリと言えば
アリですが、それをやると、とてつもなく時間がかかり、人生かけても終らない。
気力が、興味が尽きて頓挫というケースも良くあります。

何だろう、いわゆる「自分探し」と似ているかもしれませんね。

思いが、鮮明で、イメージがしっかりとしていると作品を完成させるのにさほど時間を
要しません。 目指す答えが、大体の方向が分かっていればそれに向かって進むだけです。

まあ、しかし、イメージが鮮明なのは良いですけど、そのイメージが誰かの借り物で
あったりするのはあまり頂けないですね。

いわゆる二次創作。 酷くなるとただの劣化コピー。盗作。

でも、モノを作るにおいて、摸倣とか真似は絶対的に必要不可欠ですよね。
ただ、個人的な楽しみであるならばそれは何をしようと自由です。

しかし、ひとかどの専門家として立つ為には自分なりの個性ってものがないと
なかなか難しいですよね。

まあ、しかし、その辺りのバランスというのは非常にナイーブというか、ハードな
もので、あまりにもオリジナリティが高すぎて、斬新すぎて、奇を衒い過ぎて
しまいますと、誰にも見向きもされない。というのが世の常です。

まあ、クリエイターも客商売ですので、ちょっとはお客さんの事を、いや、
出来うる限りはお客さんの事も考えないといけません。観る側の立場の
視点を忘れてはいけません。

小説でも、ドラマでも、アニメでも、あと絵本とかでも、
「ものがたり」というものは観てくれる人がいなければ存在していないのと
同じです。

人が脳内上にエミュレートした仮想の人格が、世界が織りなすものですから、
その存在を支える観客がいないと成立しません。

その不可欠な人を物語に呼び込む為に、ありがちな、決まりきった設定。
 お約束、というものがあります。

分かりやすさって、取っつきやすさって重要です。

映画ネバーエンディングストーリーの主人公のひとり、 アトレーユ。
何故に彼が、彼こそが選ばれて、過酷な冒険に出なければければならないのか
という理由です。

物語を読んでいるバスチャンが投影しやすい、感情移入できるキャラクターで
なければ、のめり込んで読んでくれなければ物語は進みません。途中で終って
しまいます。

文字通り、物語の中に読者であるバスチヤンを連れて来る事こそが本当の使命
なんですよね。

まあ、バスチャンもその為の主人公であったりしますけども。

どういう物語であれ、主人公の役割りというのは大抵そういうモノでないかと。

まあ、ですから、多くの場合、巨大な人型兵器に乗って操縦するのは少年であったり、
摩訶不思議な力で変身して街の平和を守るのは少女じゃないといけない訳ですね。

老人の気持ちが分かるのは基本的に老人だけです。少年の気持ちが分かるのは少年と、
少年時代を経験した事のある大人である訳です。

誰に向けて物語を作るかによって主人公ってのは決まります。

ですから、水戸黄門を観てるのは大概、じいちゃんですし、
渡る世間は鬼ばかりを観てるのは大抵はおばちゃんです。

まあ、お約束というのはスポーツのルールみたいなもので、それを
逸脱し過ぎると反則な訳で、読者の物語への集中を阻害し、反感を
持つものなのでは。

まあ、ただ全てお約束というルールに則ってしまいますと、非常に
陳腐というか、予定調和すぎて詰まらない。というジレンマが起きますよね。
正直で真面目すぎても詰まらないものです。人も物語も。
しあわせ過ぎてもあくびが出るし、不幸過ぎても鬱になる。人生もドラマも。

まあ、適度な「くずし」は必要ですね。
どこをどう、くずすかって個性が出ますよね。オリジナリティですね。

一匹のライオンはタンポポの夢を見るか?-Would lone lion dream of dandelions?-


今日から新年度。まあ、特にかわらないです。自分的には。

やるべき事を粛々と。それ+αですね。

専念しすぎて、次を見ていないといういつものパターンではいけませんわ。

星には願うものですが、願っている人もまた一つ一つの星なのではないでしょうか。

いわゆる地上の星ですかねえ。って中島みゆきの歌でありましたねえ。

プロジェクトXか、懐かしいなあ。襟裳岬の回は号泣したもんですわ。


まあ、それはそれとして。


一つ一つの願いでもあり、命であり、存在としての核となる紙の玉をひたすら丸めてます。

大きさが様々ですが、おおきいものだと丁度、泥団子みたいな大きさです。

磨いたりはしないですけど、なんだかそれと似た感覚のデジャヴュを覚えます。


小さい作品を無造作に置くのは色々と問題があるかもしれないですけど、

あえて、そういう風に置きたいと考えてます。

人の存在なんて宇宙規模でみたら存在していないも同然。

人が知らぬ間に踏んづけてしまいかねない小さなアリと言ってもまだまだ
オーバーすぎる位です。

そんな儚い存在一つ一つを展示する場所に表現したいかと。

観る人は神様になったかのような視点で作品に対して欲しいと。

そこから、人間の儚さと愛しさと心強さを感じて頂けたらなあ。

などと思って制作している今この現状です。

割合、適当に展示に参加を決めたのですが、意外や意外、

自分の表現したい事と上手い具合にクロスしていていやあ、人生ってほんと
面白いですね。妙ちきりんな感動を覚えてます。


またここから新たな自分の展開が見えると良いのですが、まあ、それは手前勝手な
都合ですし、変な期待をしていると痛い目を見るのは経験則ですからねえ。

でもまあ、主張すべきは主張しないとですね。

完全に人畜無害な存在なんてあり得ませんし、そんな存在は居ないのと同じです。

どんなきれい事を吐こうとも、人は所詮、クソ袋でしかありません。

別にネガティブな事でもなければ、悲観する事でもありません。

ただ、そうあるだけです。一方向から見ればそう見えるだけです。


さて、


ブログも概ね毎日投稿していると少しでもご覧になる方がいるようで。

まあ、ちょっと、ペースの維持がきついですが。

どうしても、ノパソに向かうと多弁になる性質なもので。どうにも長々とダラダラと
冗長になってしまいがちです。

まあ、しかし、検索ワードとかアクセスを見る限り、目的のものはここには置いてません。
申し訳ない。ごめんなさいです。

まあ、しっかし、ネタごとに投稿を分けた方がやっぱりよいのですかねえ。

どうにも書いてる段階での思いつきでネタがあっちゃこっちゃへ跳んでしまうんですよねえ。

で、今、書いときたいと思った瞬間に書けないと、後で書けないですね。

メモ書き残しておいても、書く気が全くおきません。

自分の中で旬じゃなくなっちゃううんですよね。


新年度なんで、とりあえずの抱負でも言っておきますか。

まあ、ひたすらに継続あるのみですね。継続は力なりです。

てなわけで、毎投稿、絵を入れる事も続けて行く所存です。

非常にむらっ気はありますが。今後ともよろしくさんです。


均衡に向かって天秤は絶えず揺れ続ける。-Aims to keep moving constantly Scales equilibrium.-

ふきあれるかぜ。はるのいぶき。


寒暖の差が大きいとどうにも身体の調子を崩しがちですね。

寒暖をわざとらしく抑揚つけて発音するとカウントダウンっぽく聞こえますよね。

そう、季節が変わっていくカウントダウンはすでに始まってますね。

と、あまり上手くない。でも、ドヤ顔で言ってみますね。

さて、さすがにしゃべり方がくどいのでここいらで止めときますね。


よし、三時という惨事は回避できそうだ。


本日買った本を5時間で読み切る。あまり関心しないなあ。

どうにもバランスってものが取れないなあ。スイッチが入ると猪突猛進して、
無茶をして身体を痛めがちですわ。

どうにも本を読むというのは、まあ、ゲームとか、でもいいですけど、
心は動いているのですが、身体は一カ所に固まってしまって不自然に停止した姿勢を
強いてしまって身体には良くないですねえ。身体がかちこちになってしまいますわ。

まあ、バランスなんて崩れてしまったら、またそこから均衡をとるべく、中庸に持って行くべく
普通に頑張ればいいんですよね。

うん、普通が良いよね。普通最高。

バランスばかりを気にして、自分自身がしたいと思う事を、欲求を抑え込むのも、
やり過ぎると問題です。


人間常に平常でいられる訳ではないです。そうでなくなってしまう瞬間というのは
どんな人間にもあります。努力して少なくできても、なくす事はできません。

かえって、「私は常に冷静だ」と高をくくるのは非常に危険です。

「こんなことは現実にあり得ない」という思い込みが危険なのはここ最近の大災害で
痛感しますよね。

世の中は原則と例外があって回ってるものです。

っと、なんだか先日と似たような事を異口同音で繰り返してますかねえ。


ペンタブの練習をここ最近コンスタントに割合、真面目に持続してやってるんですが、
描画線を洗練させようと躍起になる余り、なんだか味気のない線になってやしないかと、
躍動感のない線なってないかと思うんですが、ちょっとここいらで、制御しようとする
意識を外して、フィーリングでがしがしと線を引っ張って行こうかなと。

まあい、自分の描くタイプでない絵を、違うテイストを習得しようともしてますけども、
どうにも柄じゃない事をしすぎてるきらいがあるかなと。

努力は良いけど、無理はいけない。犬は猫にはなれないし、猫は犬になるべきでない。

あくまで自分の描画スタイルの確立を目指して。

予定調和というのもつまらないので、調和予定な感じでもうちょっと頑張ってみよう。

おっと、またバランスの話をしているなあ。

ふつふつと沸き上がる普通な気持ち。-normal to feel like a rush of water.-


テンションが張らないな。心がときめかないな。ワクワクさんが、いや、ワクワクさが足りないな。

そいや、モノランモノラン終わるのか。キャラデザわりと好きだったが…。


まあ、ここ2週間ほどの、異常な日常感がやはりおかしかったのだろう。


しかし、いかんな、無気力相撲ばりの脱力感。後ろ向きな予定調和。

やるべき事はあるが、動きが鈍いな。



まあ、とはいっても普通なレベルってどの程度なんだろう。普通にやる気のあるレベルって

どこなんだろう。


何もしなくても疲れる。忙殺されすぎても疲れる。中庸に疲れの溜まらない普通なレベルって
どの辺りだろう。


結局、前提となる基準が見当たらなければ普通なんてものは存在しない。

柔らかい地面に三脚を立てても安定感は得られない。


前提ってのは、慣習とか、原則ってのは限りなくアベレージ化したもの。平均値だから、
そんな前提の当てはまらない例外、突出したピンポイントには対応できない。


この世で不滅不変の普遍的な法則があるとすれば。すべてのものは必ず変化すると言う事
ぐらいしかない。


だから、変わらないものに惹かれる。憧れる。願う。拝みもすれば、恐怖もする。

それは仕方がない。どうにもしようがない。残念だけど。

まあ、だから、突如として序序に、粛々と忽然に変化を繰り返す。


そいう、変化を日々楽しめる心持ちでないと、そんな即興的で、ライブな人生を
楽しめないと、生きる事ほど困難な事はない。


そう、だからせいぜい、普通に生きることを、普通に受け止めて、普通でいればいい。
世の中、普通にいかない。人生に普通はそれほどない。

自分の身体の外側には普通はない。自分の内側にこそ普通はある。


普通って言葉は普段からあまりに普通に使われすぎて分からないけど、
安心感のある、とても大切な言葉だな。

ちょっと擦り傷だらけで、ぼろっちく見えるかも知れないけどさ。


だから、駅の時刻表の「普通」の表示にがっかりしない。だって、やっぱ、普通が普通なんだし。

快速とか、急行とか特急は異常で特別なんだよ。特に特急ってたしか特別急行の略
じゃなかったっけ。


そいや、昔のMacintoshってFinderのメニューの「特別」って項目からシステム終了してたよね。

電源切るのも普通じゃないんだなあ。



まあ、戯言ですけど。


ともかく、普通最高。普通っていいよね。

めきめきと芽吹き目覚め春めくリズムのマーチ。Conspicuously and budding of spring awakening march rhythm.




Japanese Dandelion and Honeybee.
Japanese Dandelion and Honeybee. posted by (C)かゆきゅう

Estimated Star Magnolia.
Estimated Star Magnolia. posted by (C)かゆきゅう

Fishing Pond and spring sunshine and shade.
Fishing Pond and spring sunshine and shade. posted by (C)かゆきゅう

Horsetail full.
Horsetail full. posted by (C)かゆきゅう

The slope of the spring weather.
The slope of the spring weather. posted by (C)かゆきゅう

Cherry blossoms bloom in October as well. Photos of them at the end of March
Cherry blossoms bloom in October as well. Photos of them at the end of March posted by (C)かゆきゅう

日曜日に志段味スポーツセンター辺りを散歩。

もう春だねえ。

タンポポはフランス語で「ライオンの歯」というのは去年辺りにネタにしたかと思いますが、

つくしの英名は「ホーステイル」。馬のしっぽだそうですなあ。

まあ、しかし、そこいら中にライオンの歯とか馬のしっぽが転がってるって、どんなサファリパーク
なんだろうなあ。

志段味は在来種のタンポポが結構多いねえ。さすが名古屋のチベット。
やっぱ、タンポポは外来種よりも、在来種の方がかわいらしくていいねえ。

まあ、あとは動物ネタじゃないけどシデコブシって英名はスターマグノリアちゅうらしいねえ。
マグノリアってのは西洋ではよく見る植物の名前っぽいそうですけど。

シデコブシってここいらだと普通に植わってるけど、基本的に東海三県辺りにしかないそうな。
身近すぎてそんな貴重な植物とは思わんかった。


桜も東京の標準木の靖国神社の桜が咲いたそうで。ソメイヨシノなんだよね。

写真のは残念ながら、桜は桜でもジュウガツザクラという種類の桜。
名前からして春秋年2回花が咲く桜なんだろうねえ。


そいや、桜はバラ科だそうで。綺麗な薔薇には棘があると言うけども、

綺麗な桜には棘がないんだねえ。くくりとしてはバラに近いんだけど。

まあ、世の中、原則と例外は付き物という事で。


さて、絵を描くのに地味に時間掛かりすぎで、ここいらがお時間となりました。
この程度のレベルのものは1時間ぐらいで描けないかなあ。

まだまだ、修行が足りないなあ。