パルプ作品考察

DSC_8759_162r

ライブマーケットの準備も佳境です。はっきり言って目標、いや理想というレベルまで

物理的な時間が足りない。制作以外の部分が気になって集中できない。

 

まあ、こんな状態はいつものこと。ここで無駄に精神をすり減らして、会場で

セルフ反省会開催モードになって自己嫌悪に陥っている状態で、観に来ている

お客さんに感じ悪くなったりでもうね。アホかと。莫迦かと。アボカド。ドリア。

 

さすがにええ加減これではいかんのですよ。以前の自分であるならそこで

そのままなんですよ。

 

久々に大型作品に手を加えて気がついた事、いや、明確に分かった、意識できた

事があります。自分のパルプの作品は完成、というよりも完了、完結することは無い

んですね。

 

手を加えればその分成長し、その形状のさらに発展する先の形が見えてくる。

そこでまた手を加えるとまた違う形のイメージが出てくる。巡り巡る造形の無限地獄。

 

通常の、根っからの理想的なアーティストであるならば、多分、ここでゴールが

見えるまで時間制限なしに突っ走る訳ですが、下手にデザインをかじってしまった

自分、私自身はどこに、いつまでに用意して展示するという、動機、きっかけを外に

依存しようとする。

 

時間的制約という厳しい枷をつけた状態でやる訳ですから、当然、理想的な形

まで至る前に時間が来てしまう。そこで自分の中で折り合いをうまくつけられず

自分の技量のなさに原因を探してしまう。しかし、本当にないのは自分の認識力の

なさ。

 

完結しない作品を作り続けても良いのではないだろうか。

つねに変化、成長し続けるのが自分の作っている作品なのだと言うこと。

 

自分の作品が完成しないものだという事と、もうひとつ分かった事がある。

 

自分の作品はどんなに切り刻もうが、溶かそうが死なない。ということ。

そこに一片の残骸がのこればそこからまた新しい形を作ることが出来る。

 

もうね、なんとも気味の悪い怪物だろうね。ある意味、不老不死。というよりも

無老無死かな。老いる、死ぬといった概念を否定するというよりそいう概念すら

無い感じ?

 

まあ、その前提にはその造形を作り続ける人間がいる事が必要なんで、完全絶対

な存在という訳ではないんですがね。

0 件のコメント:

コメントを投稿