今日も散歩ネタか。ぼちぼち、制作日誌モウドに戻さんとなあ…。
午前の雨は夕方には大体あがったようで。ちょっとした用事のついでに
散歩をする。
こういう天気の時は居ても犬の散歩してる人ぐらいなのでよいねえ。
最近、堤防とか、川べりの草むらをグリーンよろしく誰かが刈り取った
所で、ボールを使ってゴルフの練習をしてるおっちゃんか、じいちゃんが
何人かいるのでちょっと邪魔くさい。
まあ、ごくたまに、モトクロスの練習で堤防をぐりんぐりんと8の字の痕を
残してく親子よりはマシといえばマシな部類。明らかに堤防にダメージを
与える行為なので正直、止めて欲しい。万が一コレが原因でここが決壊したら
自分ちに被害が出るし。
なんか、最近グチが多いなあ。溜まってんのかねえ。
葉っぱにカミキリムシなのか、ハムシなのか分からないけど虫が
這ってる。
適当にカメラで追ってみて、丁度シャッターを推した瞬間に羽を広げてまさに
今飛ぶ感じの瞬間を撮れた。なかなかいいんでない?
中志段味橋の辺りまで行くと、工事車両が橋の上に何台か停まってる。
橋まで行ってみたら歩道と車道の間のガードレール が外されて、鉄板が
敷かれててクレーンの様なものを積んだ車両が停まっているんだがどうやら橋の
裏側を整備するためのものらしい。
つか、ガードレールってボルト止めで着脱できるものなんだねえ。まあ、
ガードレールといっても典型的な奴じゃなくて柵というか手摺みたいな
やつだけど。
テントウムシの幼虫。だけど、ちょっと大きめ。もうすぐ成虫にでもなるんだろうか?
そいや、昨日、人と自然という対な考え方がどうのって話書いたけれど、
そいう、区分というか価値観の話に、なるのかなあ?
現実と空想、リアルとフィクションの関係性だけどさ、
通常は、現実というバックグラウンドの上に空想というものが乗っかてる、
例えるならパソコンのOSという基本ソフトの上に各種アプリケーションが
動いているというイメージになるんだろう思うんだけど、ちょっと、それは
ちがうんじゃないかなあと。
現実というのもアプリケーションであって、空想と並列な関係でないかなあと
思ったりします。
んー。
いや、もしかすると、空想というOSの上に現実というアプリが動いてるのかも
しれない。
人の認識能力なんてたかが知れている。事実や真実とは常に一個人の中の現実とは
かけ離れているものではないでしょか。
信用していた人や、会社や、国が実は全然信用に足る存在じゃなかったという事
なんてのは日常茶飯事でしょう。
最近だって、どっかの国が財政上で嘘をついていたのがバレて世界を巻き込んでの
大騒ぎがおきたじゃないですか。
お金の世界とはいえ、結局最終的に大事になってくるのが「信用」という
なんともあやふやなものなのかも知れません。事実がどうであれ。
信用が無くなった瞬間に恐慌ってのは起こるんでしょう。
信用というのも一種の空想、幻想かもしれないですねえ。
話が若干それました。
まあ、これが現実なんだと思い込んでいる事は、実は単なる思い込み、先入観に、
自分自身が作り上げた空想やら、妄想に過ぎないかもしれません?
だから、そもそも、現実と空想に明確、明快な境界は存在していない。
現実という認識自体、個人の認知能力に依存するから絶対的に正しいなんて事は
あり得ない 。
常に勘違いは起こる。誰かを異常だと、正気でないと言う事は出来ても、自分が
異常でないと、正気だと保証するのは難しい。
物事の正誤は答え合わせが出来なければ確認できない。つまりは来るべき時が
来ない限り、正しいかは分からない。
更に、その正しさを認識できる、理解できなければその答えの正しさも
分からない。
まあ、だからどんなに足掻いたって自分が空想した現実しかない訳で。
でも、他に拠り所も無いから自分の空想した現実という創作物を信じて
生きる以外、どうしょうもないかなあ。
自分がこれは空想で現実にはあり得ないと思い込んでいる事が実は現実。
何て事もあっても不思議じゃない。不確定だからこそ、
自分で決めていいのかも知らん。
そんな不確定でも自分を信じなきゃ生きる事もままならない。
信じるという事は簡単な様で難しい。
信じない事の方が得意な人間なもので。